「うりこひめの夜」~襲うものと襲われるものの依存関係~

3月8日、青島広志先生の主催するブルーアイランド版オペラで、林光の「あまんじゃくとうりこひめ」、青島広志先生の新作オペラ「うりこひめの夜」のカップリングステージを見に行ってきました。今日はその感想を。

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公演ちらし。

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会場のあうるすぽっとにはフクロウさんが至る所にいました。

 

あうるすぽっとって初めて来たのですけど、池袋駅前の再開発プランの中で、「演劇の街池袋」の象徴として作られた劇場のようですね。東池袋駅の目の前。エレベーターホールの前の扉がちょっとお役所の公共施設っぽいのが若干残念だけど、その扉を通って中に入ってしまえばとてもいい雰囲気の劇場。

お目当てはもちろん、自分が以前からどっぷりハマっている漫画家、諸星大二郎先生の「瓜子姫とアマンジャク」を原作とした青島先生の新作オペラ「うりこひめの夜」。基本的に自虐キャラで自分に向けられる称賛を素直に受け入れてくださらない青島先生ですけど、この人はやっぱり天才なんだなぁ、と改めて思いました。原作のセリフをほぼ忠実になぞりながら、自然な日本語の流れとキャラクターのライトモチーフが無理なく調和しつつ進行していく濃密なアンサンブル。その中に時折ハッとするような抒情性が立ち現れる瞬間の清々しい感動。そういう160キロの剛速球も投げてしまう天才なのに、自作のオペラ作品の中にまで諧謔やパロディを入り混ぜて笑い飛ばしてしまう所がなんとも青島先生らしい。この作品はそういう自虐的なところを捨象して、すっきりとしたオペラとして上演したら本当に素晴らしい作品になるんじゃないかなぁって思った。ラスト、飛翔感と浮揚感あふれる伴奏に合わせて、自らの破滅を覚悟しながらも、自分の思いを貫こうと空を駆けていく瓜子姫の姿が本当に泣ける。

とはいえ、自分は音楽については素人なので、あまりオペラ作品としての「うりこひめの夜」には立ち入らず、同時に上演された林光先生の「あまんじゃくとうりこひめ」にも共通していた、「瓜子姫」というおとぎ話におけるアマンジャクと瓜子姫の関係性について、思ったことを少し書きたいと思います。

「瓜子姫」というおとぎ話は子供向けにアレンジされることが多いけど、もともとはかなり凄惨なお話で、瓜子姫はアマンジャクに殺されるのが基本形。それも木から突き落とすとか岩の上で切り刻むとか、挙句に、殺した姫から剥ぎ取った生皮をかぶってアマンジャクが姫になりすます、切り刻んだ瓜子姫の肉を、おじいさんとおばあさんに食わせる、など、もうほとんどスプラッタホラーの筋立てになってるケースもあるそうです。

WiKiによれば、そういう凄惨なお話になっているのは東日本が多くて、西日本では姫は生き延びるパターンが多いそうなのだけど、いずれにせよアマンジャクは姫を襲う悪として描かれていて、最後には罰せられる(大抵は殺される)ことが多い。でも、今回のオペラ作品2つでは、この「うりこひめ」の物語の道具立て(姫になりすましたアマンジャクが機を織る、といったモチーフなど)は活かしながらも、アマンジャクは「悪」ではなく、むしろ邪気のないいたずらっ子で、物語を動かしていくトリックスターであったり、あるいは瓜子姫の孤独な心情の唯一の理解者として立ち現れてくる。

こういう、瓜子姫とアマンジャクの間の一種の「相互依存」ともいえる関係性は、諸星先生が「妖怪ハンター」で瓜子姫伝説を取り上げた「幻の木」という短編でもっと濃厚なテーマとなっています。諸星先生は、「瓜子姫」を、全世界に伝わる「世界樹」伝説に連なる神話的な物語にまでスケールを拡大。「世界樹」から得られる無限のエネルギーを元に、世界樹への人身御供として死と再生を繰り返す「瓜子姫」という永遠の存在と、その存在の再生を促す破壊者としての「アマノジャク」という、対立と依存の関係をもつ二つの切り離せない存在としてこの二人を描き出します。善悪を超えたこの二つの存在は、世界樹を中心に輪廻の輪を回すプラスとマイナスの力のような相互依存関係にある。

そこまで話を広げないとしても、昔話における襲い襲われる立場のプレイヤー同士が、一種相互依存のような関係で結ばれてしまう、というのは、他のおとぎ話にも結構ある気がするんですよね。瓜子姫以外にも、「かちかち山」のウサギとタヌキ、さるかに合戦のサルとカニ、あるいは、「花咲か爺さん」「おむすびころりん」「こぶとりじいさん」「舌切り雀」などの昔話に現れる心優しい老人といじわるな老人の対立関係なんかも、単なる善悪の関係、というより、片方が壊し、片方が再生させる、何かしら相互依存関係のような密な関係性を感じることがある。

諸星先生は、「さるかに合戦」におけるサルとカニの対立関係や、「花咲か爺さん」の対立関係も、「柿の木」や「花を咲かせる木」という形で立ち現れる「世界樹」を巡る善悪の抗争、として捉える文章も書いてます。この発想も魅力的なのだけど、いずれにせよ、日本の昔話に出てくる対立関係というのは、単純な善悪の対立、というよりもっと深い、世界を動かしている破壊と再生のダイナミズムのような哲学を内にはらんでいるような気がしてならない。

対立関係を単純な善悪の二元論に落とし込んでいかないのは、キリスト教のような一神教でない日本の精神風土が背景にある、という分析も可能かもしれないですね。アマノジャク含めた「鬼」という存在自体、悪魔とは違って絶対的な悪ではないから、そこに同情や愛情や依存が生まれる余地があって、善悪を超えた対立関係が物語を動かしていく構造が生まれるのかもしれない。そういえば、日本神話のイザナミイザナギ伝説自体、鬼と化した女性と現世の男性が、夫婦でありながら生と死を司る神として相互に依存する関係性を持ってるし、そこにそもそも善悪という価値観自体存在してないんだよな。

じゃあ、西洋の昔話にはそういう「襲い襲われるもの」同士が善悪を超えた依存関係を持っているケースがないか、というと、ありましたよ。「赤ずきんちゃん」。この物語の中の赤ずきんちゃんとオオカミの関係っていうのは、単なる襲い襲われる関係じゃない感じがするよね。でもそれって、この物語が持っている濃厚なエロスの要素が生み出すものだし、そういう観点でこの物語をダークファンタジーに作り直した映画とかもあった気がする。確かに、「瓜子姫とあまんじゃく」というのもエロスの要素を見ることはできるし、「カチカチ山」のたぬきとうさぎの物語を男女の駆け引きとして捉えたのはあの太宰治でした。人間世界を構成する男と女、という対立関係こそ、破壊と再生という相互依存の関係そのものだったりしますからね。

林光の「あまんじゃくとうりこひめ」は、子供にも愛される作品となるように、あえてアマノジャクを愛嬌のあるキャラクターとして描いている側面もあるかな、とは思いますけど、こうやって別の作家の手でアレンジされた同じおとぎ話が、原作の昔話の襲い襲われる関係を、むしろ双方の相互依存の関係に読み替えてしまう同じアレンジを加えている所がなんだか面白かった。そう思うと逆に、東日本で伝えられたアマノジャクがここまで残虐な「悪党」として造形された理由の方が、むしろ興味惹かれますよね。そこまでヒドイ話にしなくてもいいだろう、と思っちゃうほど、瓜子姫が残虐に殺されねばならなかった所に、東日本における何か民俗学的な精神世界が影響しているのかもしれないなぁ。