継承すること

久しぶりのブログアップです。facebookとかGAGのブログとかに多角展開したせいで、なかなかこの日記の記事を書けずにおりましたが、先日見た「ヨリタモリ」にかなり考えさせられてしまったので、ちょっと書く気になりました。

ヨルタモリ」は、先日松たか子さんの出ている回を見ただけなんだけど、タモリさんの至芸に大笑いしながら、どこかで背筋を伸ばして見なければいけないような気分になった。これは、タモリさんが次世代の芸人たちに対して叩きつけた挑戦状、あるいはもっと言ってしまうと、遺言状のような番組なんじゃないかな、と。少なくとも若手の芸人さんたちは、この番組を正座してみないといかんと思うし、下手に視聴者に媚びて変な方針転換とかしないで、このままのスタイルを貫いてほしいと思う。

タモリさん、という人は、自分の「キャラ」ではなくて、自分の「芸」を商品にすることができる昭和の芸人さんの最後の一人なんじゃないかな、と思う。「ヨルタモリ」に、「TV番組」として紹介される短いタモリの「芸」のコーナーでは、毎回違うネタを披露してくれるみたいなんだけど、毎回違うネタで一年以上番組を続けることができるほど、豊富な「芸の引き出し」を持っている芸人さんが、今の若手芸人さんにいるかしら?若手芸人さんが得意にしている、反射神経が勝負の軽妙なトーク、というのも、確かに高いコミュニケーション能力がないとできない「芸」だし、それを究極まで突き詰めたのが明石屋さんまという人だったけど、TVに映っていない時間、舞台に上がっていない時間を膨大に費やして磨きに磨き抜かれた「芸」で勝負できる芸人さんが、どれだけいるかしら?

タモリさんが笑っていいともを止めて、「ヨルタモリ」という番組を始めたことに、赤塚不二夫さんが亡くなったことが関係しているのでは、と思うのは、私の考えすぎだろうか。赤塚さんが亡くなって、昭和40年代の漫画文化を支えた巨人が消えた。友人の漫画評論家の新保さんがどこかで、「昭和40年代の漫画って、狂ってるね、いい意味で。」と書いていたけど、本当にその通りで、あの時代の狂気をはらんだアナーキーな漫画文化・漫画芸術が、赤塚不二夫さんの死で一つの区切りを迎えた。そしてそれは継承発展されている、と言えるのかどうか。最近の漫画をあまり読んでないのでなんとも言えないのだけど、完全に大衆文化となり、サブカルチャーからクールジャパンの最新コンテンツに躍り出た漫画に、かつてのアナーキーな破壊力を望むことは難しいのじゃないか。

同じような「芸の大衆化」は、芸人からその「芸」を奪っているのかもしれない。一発芸、という言葉が象徴している通り、毎日の鍛練や日々積み重ねた教養などとは遠いところで、一瞬の反射神経だけで笑いを取る「芸人」があふれる中で、タモリさんがふと、「そろそろオレの芸をちゃんと残しておかんといかんかな」と思ったのじゃないかな、という気がする。そこに、赤塚不二夫さんの死、というのが影響していたんじゃないか、と想像するのは、あながち無理な想像じゃない気もするんです。

実際のタモリさんの芸の引き出しを、映像として残しておくだけじゃなく、その芸を見せることで今の「芸を失った芸人」さんたちに、何かしら感じてほしい、と思っているのかもしれない。宮澤りえさんのお店にやってくるお客さん、というフィクションの中で、タモリさんがタモリさん以外の人を演じている、ということにも、私はメッセージ性を感じる。要するに、タモリタモリとして言ってしまうと角が立つようなことでも、店の常連さん、というフィクションの中の人物として語れば許される、という計算なんじゃないかな、と。何か別の人物が語っているんだ、というオブラートで包むことで、タモリさん自身の本音のメッセージを届けたい、という意図なんじゃないかな、と。

「芸の継承」に限らず、技術の継承にしても、最近本当に難しいなぁ、と思うのは、昔は、受け取る若い世代の方が、芸を盗み取ることに必死だったんだけど、最近は芸を持っていてそれを引き渡す側が、誰か引き継いでくれないか、と必死になっている、ということだよね。受け取る側がやる気がないから、どうしても芸の本質をつかんでくれない。技術の本質をつかんでくれない。本質を捕まえなくても、視聴率は取れる。モノは作れる。必死に金型叩かなくても、3Dプリンターですぐにモノは作れちゃう。そんなに毎日必死に芸を磨かなくても、他の人がやらない一発芸を思いつけば、それで半年はTVでちやほやしてもらえる。

そんな若い人たちばかりじゃないことも分かっていますけど、逆に若い人たちの気概をくじくような社会であることも確か。格差社会の中で地道な技術を継承するような日々の作業は疎んじられ、即戦力という名前で促成栽培の若者を欲しがる企業が増えている。人材もソフトも使い捨て。本当に大事な「芸」や「ハードウェア」はどんどんおざなりにされていく。

今度2月1日にある合唱団麗鳴で、昨年に引き続き、一つのステージを演出することになりました。最近、こういう「継承」ということを結構真剣に考えているせいか、今回のステージの一つのテーマに、「次世代への継承」ということを掲げています。人間というのはどこかで、自分の生きてきた証を後世に残したいと思うもの。私自身も、そういう年齢に達してきたのかもしれないなぁ。