宮本亜門演出 「ドン・ジョバンニ」〜毒の華〜

昨夜、女房に、「面白い舞台らしいから、行っておいで!」とお尻を叩かれ、よく分からず行ってまいりました。宮本亜門演出の「ドン・ジョバンニ」。

二期会オペラ公演「ドン・ジョバンニ
演出:宮本亜門 指揮:パスカル・ヴェロ 東京フィルハーモニー
堀野浩史/騎士長 佐々木典子/ドンナ・エルヴィーラ
ドン・ジョヴァンニ/黒田 博 吉田恭子/ドンナ・アンナ
望月哲也/ドン・オッターヴィオ 境 信博/ジョヴァンニの従者レポレッロ
斉木健詞/ツェルリーナの恋人マゼット 林美智子/村娘ツェルリーナ

という布陣でした。

正直、非常に興奮しました。こんなに興奮した舞台は久しぶり。演出の発信するメッセージに興奮したのですが、そのメッセージが、モーツァルトの音楽、ドン・ジョバンニの音楽を決して損なっていない。100点の舞台ではない、難点も色々あるのですが、それでも、非常に大きな収穫でした。
 
舞台の流れをざっと描写しましょう。私の解釈も入っているので、見た方には所々違和感があるかもしれませんが・・・

舞台は、テロ直後のNY。幕前にはみ出すほどの、破壊されたビルの残骸の中で、物語は終始進みます。ドンナ・アンナの叫びに飛び出してきたドン・ジョバンニは、中世風の紫のコートを着ていますが、さほど中世風には見えない。続いて飛び出してきた騎士長は、米軍の軍服に身を包んでいる。ピストルを構える騎士長を返り討ちにしたドン・ジョバンニは、レポレロと共に逃れる。

かけつけたのはオッターヴィオと、警察、マスコミの連中。オッターヴィオとドンナ・アンナの嘆きを、TVクルーが中継する。米国の上流階級の人々の悲劇を追いかけるマスコミのよう。そのTVの前で、大げさに嘆き、復讐を誓う二人も、マスコミ馴れしたセレブな偽善者に見えてくる。

時代遅れのインテリ女性のようなファッションに身を包んだエルヴィラの登場。佐々木典子さんの演技が秀逸で、ヒステリックで思い込みが激しいエルヴィラの、どこかコミカルな感じを見事に演じてらっしゃる。このエルヴィラが、召使の女と、小さな娘を連れている。この娘、何故出てきたのか、ここでは全く分からない。

エルヴィラにレポレロが歌うカタログの歌は、沢山の携帯電話を出してきて、登録されている女の子の電話番号リストを見せる、という趣向。遊び心が楽しく、レポレロ役の境さんの硬軟とりまぜた歌唱技術は見事でした。

ツェルリーナ達の登場。NYの不良少年少女たち、として描かれます。何かというとクスリに逃避し、マゼットはすぐキレてツェルリーナを殴る。でもどこか純粋なところを残している、ということなのか、衣装は全て白が基調です。ツェルリーナはドン・ジョバンニに惹かれるのですが、マゼットはキレて怒り出す。そのマゼットを、「ぶってぶって」となだめながら、ツェルリーナがマゼットに覚せい剤を注射する(!)。こういう不愉快な場面が沢山出てきて、ドン・ジョバンニに敵対する人々が、どれほど胡散臭い偽善者たちか、ということが強調されます。

ツェルリーナの林さんは、もともとがメゾ、ということもあるのか、ちょっと歌唱が厳しそう。マゼットの斉木さんも、演技的にはマゼットそのもの、という感じなのですが、声の響きが広がりすぎて少し聞き苦しい。でも、お二方とも、お若くて美男美女なので、役柄にはぴったり。

ドン・ジョバンニの城でのパーティは、乱交パーティのような猥雑な雰囲気で描かれます。ボンテージ風の衣装に身を包んだヌードモデルの乳房にマゼットがしゃぶりつくシーンなど、未成年には見せたくない猥雑なシーン。ここで、レポレロはお尻を剥き出しにした男の子を追いかけ、レポレロって、ゲイなんだ、と納得。この納得、というのが大事。もともとの「ドン・ジョバンニ」の世界で、ゲイのレポレロ、という設定は実にしっくりくるじゃないですか。

1幕はこんな風に進むのですが、正直、1幕の時点では、あまり演出意図が明確に見えない。不愉快さが先に立つところがあって、休憩時間中、2幕はどう料理されるのかな、と、不安と期待と共に幕開きを待ちました。

2幕の幕開け、レポレロとドン・ジョバンニの入れ替わり。佐々木さんと境さんの演技が見事で、笑わせてくれます。入れ替わったドン・ジョバンニは、カセットデッキを持っていき、それをBGMにセレナーデを歌う、という趣向。ここで、非常に印象的なシーンが出てきます。

セレナーデに応えて出てくるのは、エルヴィラと召使が連れてきた女の子なのです。この女の子に、ドン・ジョバンニが実に優しく、愛を語りかける。そして最後には、泣き崩れるのです。そのドン・ジョバンニを、「おじさん、どうしたの?」という感じで、女の子が慰めるように肩を抱く。このシーンを見て、突然理解しました。そうか、この子は、ドン・ジョバンニとエルヴィラの間に出来た子供、つまり、ドン・ジョバンニの娘なんだ!

別れて暮らす娘へのセレナーデ、と考えると、このシーンが非常に泣けるシーンになる。しかも、セレナーデの優美さを全く損なわない演出。そして、エルヴィラがあれだけドン・ジョバンニに執着している理由も、最後までドン・ジョバンニをどこかで擁護しようとする理由もわかる気がした。

騎士長のお葬式の場面になり、ドンナ・アンナの前で、オッターヴィオが復讐を、愛を誓います。ここで、騎士長の棺から、星条旗が出てきます。初めて星条旗が出てくる。これによって、ドン・ジョバンニが、アメリカの正義に対抗するものとして、明確に位置付けられる。そこで、また、はたと理解しました。アメリカの「正義」「大義」に対抗する、アナーキードン・ジョバンニ・・・って、ビン・ラディンのことじゃないのか?

ドン・ジョバンニ=テロリスト、という図式で見ると、1幕の色んな仕掛けが一気にクリアに見えてきた。この後は、相当興奮してきました。ドンナ・アンナは、オッターヴィオへの愛を誓う歌を歌いながら、なんと歌の最後で、オッターヴィオの部下を自分の寝室に連れこみます。色情狂のドンナ・アンナ、という設定が明確になったとき、そもそも、ドン・ジョバンニが殺人犯になってしまった最初の事件自体、非常に胡散臭い匂いが漂ってくる。まさに、イラクに侵攻したアメリカの「大義」が胡散臭いものだったように。つまり、ドンナ・アンナ自身が、ドン・ジョバンニを連れ込んだんだろう。そこを騎士長に見つかってしまったんだろう。その事件をもって、本当に、ドン・ジョバンニ=悪党、と言えるのか?

興奮は、ドン・ジョバンニの食事のシーンに至ってさらに盛り上がる。ドン・ジョバンニは、ホームレスのばあちゃんたちを自分の宴席に招き、ケンタッキーフライドチキンを振舞うのです。そこに、救済者、つまり、「悪」ではなく、「善」としてのドン・ジョバンニが提示される。さらに、そのばあちゃんたちの中心に立つドン・ジョバンニの姿が一瞬、強い光の中に浮かび上がると、それはまさに、ダ・ビンチの「最後の晩餐」の図柄にそっくり。ここで、ドン・ジョバンニ=キリスト=受難者、という記号が提示されるのです。

最後の地獄落ちにおいて、騎士長の亡霊に動揺するドン・ジョバンニを、悪魔の軍団ではなく、米軍の軍隊が取り囲む。そして、ドン・ジョバンニを殺すのは、騎士長ではなく、オッターヴィオとその部下なのです。オッターヴィオのピストルに倒れたドン・ジョバンニが、それでも自分の信念を歌いながら立ち上がり、上半身裸になると、わき腹には打たれた銃創が見える。これが再び、キリストの聖痕、つまり、ドン・ジョバンニ=受難者、という記号の再提示となっている。

十二分に興奮した後で、最後の七重唱が現れる。これは明らかに、偽善者たちの七重唱。腐りきった「大義」の元に滅ぼした、ドン・ジョバンニという「悪」に対する勝利を高らかに歌う。この人々が手にするのは、星条旗なのです。舞台奥には巨大な星条旗が掲げられ、「悪」への勝利を歌う。その星条旗の群れの中を、あの子供が逃げ惑う。違う!違う!と言うように。星条旗一色に染められた中を、白い服の子供が、必死に駆け回る。すると、舞台奥、崩れかけた壁の向こうに、白い服をまとったドン・ジョバンニの幻が現れ、子供に向かって、羽根をそっと投げかけるのです。引き裂かれた天使の羽根を投げるように。子供はそのドン・ジョバンニの姿を、確かに見るのです。その時、ドン・ジョバンニの姿の見える壁は、馬の形になっている。馬の背に乗ったドン・ジョバンニは客席に背を向け、どこか別の世界、別の「正義」のある世界へと旅立っていくように見えるのです。

このラストシーンに至って、全てが明確になり、全てが解決する。そしてその演出意図の明確さ、そのメッセージの強烈さに、身震いしました。これはすごい。すごいのは、これが、モーツァルトの音楽、「ドン・ジョバンニ」という作品のアナーキーさ、ドン・ジョバンニというアンチ・ヒーローの持つ反社会性と見事にマッチしていることです。

さすがに、ドン・ジョバンニビン・ラディン=テロリスト、という解釈は行き過ぎかもしれません。テロ行為が絶対的な悪であることは確かですから、ヘタをすると、テロリスト賛美、という危険な罠にはまる可能性もある。この演出は、そういう意味では非常に危険な演出だ、と思いました。しかし、ドン・ジョバンニを、いわゆる「正義」「大義」という胡散臭い一般常識を破壊し、自分の信条にひたすら忠実に生きるアナーキスト、と捉えると、その解釈にもどこか真実味がある気がします。

そこまで行かなくても、アメリカ的正義の名のもとに踏みにじられるものへの哀悼、というこのメッセージは強烈で、明確です。日本だから出来たことだし、宮本亜門、という人だから、自信を持って提示できたメッセージでしょうね。このメッセージがマスコミでは理解されず、ケチョンケチョンにけなされているみたいですが、私には強烈に届いたし、まさにこれこそ、現代のドン・ジョバンニの物語だと言える、と思いました。

パスカル・ヴェロの指揮はスポーティでスピード感にあふれていますが、アンサンブル的にはかなり危ないところもある。望月さんのオッターヴィオ、吉田さんのドンナ・アンナは素晴らしく、黒田さんはタイトルロールを色気たっぷりに、また哀愁たっぷりに、見事に演じてらっしゃいました。決して100点満点の舞台ではない。音楽的にも、演出的にも、不愉快なところ、不満な所は沢山ある。でも、非常に刺激的で、わくわくする舞台でした。

しかし、前述の通り、危険な演出です。非常に端的に言えば、私はこの舞台から、「お前だってアメリカ嫌いだろ?あんな正義ぶったやつら嫌いだろ?ビン・ラディンって、結構かっこいいよな?」というメッセージを受け取ってしまいました。そういうメッセージを受け取る人は少数派かもしれないけど、ひょっとして演出家の意図がそこにあったとしたら・・・これは危険です。

毒のある花ほど魅力的に見える・・・そんな、アグレッシブで、毒気に満ちた、魅惑的な舞台でした。これが7000円ってのは、ほんとに安い!えらいぞ、新宿文化センター!