大野和士・プロフェッショナルふたたび

昨夜、NHKの「プロフェッショナル」で、再び大野和士さんが登場していましたね。茂木さんとの対談の未放送部分を取り上げた放送。漫画家の浦沢直樹さんのトークとのカップリング。このカップリングも中々面白かった。

例によって女房と一緒に見ていて、例によってぶんぶん頷く場面がたくさんあったのだけど、面白かったのは、大野さんが、「身体」に拘った発言をされたところ。

「指揮者というのは、自分のボディから、『気』のようなものを演奏者に伝えねばならないんです」という発言、それと、右手と左手の役割分担、使い分けを自分の体で身につけるトレーニング方法の紹介。同じリズムで、片方の手で机をさすり、もう片方の手で机を叩く。これを瞬時に入れ替える。このトレーニング方法を見ながら、合唱指揮を勉強した経験のあるうちの女房が、「お、これ練習するよね。」といいながら、自分でもやってみせる。私も真似してみるけど、全然できない。さらに女房が、「右手で空中に三角形を描きながら、左手で四角形を描いてごらん」と言う。できない。そんなことできるか。女房はにかにかしながら楽々とやってみせる。私はエイリアンを嫁にしたのかもしれん。

指揮者は自分では音を出さない。言葉で「こう演奏しろ!」と本番中に叫ぶこともできない。となれば、演奏者と指揮者を結ぶのは、「指揮法」という、身体表現以外にないのです。「ボディ」という言葉で大野さんが強調されていた、「身体」へのこだわりは、指揮者という職業が、音楽を自分の身体で表現するという意味で、バレリーナやダンサーと似通った身体表現の芸術家であることを示している。

大野さんが「椿姫」の序曲をアナリーゼして見せた場面を評して、女房は、「こういうアナリーゼを語ることができる人ってのは、それこそ一杯いるんだよ。」と言います。確かに圧倒的なイメージ力かもしれないが、そういう分析やもっともらしい解釈を示すことができる人は他にもいる。でも、それを、「指揮」という身体表現できちんと表現できる技術と、訓練をしっかりと経ているホンモノの指揮者は、そう沢山いるものじゃない。

指揮者という職業の面白さは、身体表現の芸術でありながら、その表現の究極の形が、「身体自体が表現と化す」状態になること。大野さんが「晩年のチェリビダッケクレンペラーは、ほとんど身体的には動かない、動けない状態で、それでも指揮台に立つだけで、ブルックナーの荘厳な伽藍を構築することができたんです」とおっしゃっていました。究極の身体表現が、身体の存在そのものになってしまう凄み。

浦沢さんとのカップリングが面白いなぁ、と思ったのは、漫画という表現と、指揮者という表現が、まさに対極にありながら、表現の真髄の部分でつながっていることを確認したこと。大野さんが、茂木さんに、「どうやって一人ひとりの音を聞き分けるんですか?」と聞かれて、「自分の中に、楽譜から読み取った『鳴るべき音』があって、それと比べて違う音が出た時に、『違う』と言える」というお話をされていました。女房が、「自分の中に、『マスターピース』を持っているってことなんだよね。」と呟く。

自分の頭の中に、この作品はこうあるべき、という設計図がきちんと描けている。その設計図とずれた音が鳴れば、「違う!」と思う。ゆるぎない設計図を持つこと、それを保つこと。そして、それと実際の音とのずれを聞き分ける優れた耳を持つこと。

大野さんの「指揮」という表現は、ある意味非常に制約された表現手段です。自分の中の「マスターピース」を表現するために、指揮者は、演奏者という他者の手を借りるしかない。だからこそ大野さんは、「100人という演奏者に自分の指揮を理解してもらえなかったら、これはものすごく孤独な仕事です」とおっしゃる。自分の中にあるものを、自分自身で表現できないもどかしさ。

対する浦沢さんの「漫画」という表現は、表現者が、物語、セリフ、キャスティング、カメラアングルからテンポまで、全ての表現を一人でこなしてしまう、ものすごく直接的な表現手段です。そういう表現であれば、指揮者のようなもどかしさを感じることはないと思うのに、浦沢さんは、「中々自分の頭の中にある線を描けない」とおっしゃいます。「そういう時には、半眼になるような感じで描くんです。自分の中にあるものをきちんと表現しようとすると、色んな力みが入ってしまう。」

人に表現してもらう指揮であっても、自分で表現する漫画であっても、自分の中にきちんと、完成された設計図を持つこと。その設計図を外に表現するために、表現技術を磨くこと。技術がなければ表現はできない。表現したいことがなければ、いくら技術があっても表現はできない。本当に当たり前のことなんだけど、このバランスをきちんと保つことが、実際にはすごく難しいことなんだよね。