ガレリア座第28回公演「マリツァ伯爵令嬢」〜俺たちのウィーンオペレッタ〜

先日開催された、ガレリア座オペレッタ公演「マリツァ伯爵令嬢」。今回は私は不参加で、女房がタイトルロールのマリツァ、娘はチェロで参加。私は客席で堪能させていただきました。


本番前の休憩時間、マリツァのおうちの前でくつろぐ小マリツァ(&イロンカ)。そういえば、昔「美しきエレーヌ」で女房の子供役、小エレーヌを演じた時、うちの娘は9歳でした。今回出演してくれた最年少の子と同い年だったんだねぇ、と、遠い目。

この演目をガレリア座が初めて上演したのは、もう20年前。その時は私がジュパンを演じ、女房は相手役のリーザを演じました。ジュパンが登場してすぐに歌う「行こう、ヴァラシュディン」は、機会があれば今でも時々歌う私の大事なレパートリーの一つ。それ以外のジュパンの曲も、20年も経つのに、いまだにしっかり歌詞を覚えていて、ところどころのセリフ回しや振り付けまでよみがえってくるのに驚いてしまう。それだけ自分の血肉になっている、というのは、自分自身が若かった、ということと、それと何よりも、カールマンの音楽の魅力だよね。カールマンのオペレッタは、何と言っても「チャールダッシュの女王」が有名ですが、それ以外にも秀作が沢山あり、中でも「マリツァ伯爵令嬢」は、カールマン節の魅力が一杯つまった佳作です。

自分の血肉ともいえる大好きな演目・・・となると、その演目に対する対し方、というのもどこか複雑なものになります。誤解を恐れずにすごく簡単な言葉で言ってしまうと、「ちゃんとやってくれ」と思うんだね。ある意味マニア的な感情に近いと思うんだけど、中途半端にやってほしくない、という気持ち。じゃ、何をもって「ちゃんと」というのか、という話なんだけど、変な話、「上手にやってくれ」ということじゃないんです。技術的に高度な演奏を聞かせてくれなくてもいいんです。さらに誤解を恐れずに言えば、「下手でもいいから、分かってやってくれ」ということになるのかもしれない。

オペレッタ、という素材の持っている面白さがそこにある。超絶歌唱技術を追求する側面のあるオペラと違って、オペレッタの曲っていうのは、酒場や街角でみんなが鼻歌で歌える曲が多いんだよね。ウィーンのホイリゲなんかに行くと、今でも流しのバイオリン弾きなんかが、カールマンやレハールのメロディーを奏で、お客さんが一緒に歌ったりする。そこで大事なのは、その土地の空気感を感じているかどうかであったり、オペレッタというのはそういうものだよね、という了解があるかどうか。ウィーンオペレッタをやるからには、ホイリゲの酔っ払いのおばさんおじさん達が鼻歌を歌っている雰囲気を知っていて欲しい、とか、カールマンをやるからにはそこに流れるハンガリーの血を感じてほしい、とか。同じようなことはフランスオペレッタにもきっと言えて、フランス人がよく言う「エスプリ」という、そう表現する以外に方法のない「Spirit」を感じているかどうか、一種の「ローカル色」のようなものが、しっかり沁みこんだ表現になっているかどうか、という点が、オペレッタ舞台に対する満足度を大きく左右してしまう。

錚々たるプロの演奏家たちをそろえた豪華なオペレッタ舞台を見て、時々、「ちょっと違うんだよなぁ」という気分になってしまう、というのはそういう所にある気がします。それは決して演奏技術の問題でもなく、もっといえば、パフォーマンスとしての完成度とも違う所にある。例えば、先日映画館で見たMETの「メリー・ウィドウ」だって、世界一流のパフォーマンスの素晴らしい舞台だったですけど、「ウィーン・オペレッタじゃないなぁ」という感じがしました。非常にグローバル化されたオペレッタ舞台であって、ウィーンオペレッタじゃない。

もちろん、ガレリア座オペレッタが、正当なウィーン・オペレッタの継承者である、なんて言うつもりは全くないんです。ガレリア座オペレッタを見て、「こいつらはウィーンの粋というものを全然理解しておらん!」って喚きだす人は絶対いると思うし、作り手だって100%分かっているなんて思っていない。ただ、ガレリア座という場所で20年以上、「ウィーン・オペレッタってこうだよね」「カールマンのこういうところがいいよね」と言い合ってきた仲間が作る舞台は、私自身が感じている「ウィーン・オペレッタの、カールマンの魅力」を日本で一番100%に近い形で表現してくれるに違いない。なんだ、結局身内の論理じゃん、と言われるかもしれないし、多分その通りなんだけど、客席にいた私が今回の「マリツァ伯爵令嬢」に求めていたものっていうのは、ある意味、「俺たちがずっと好きだったウィーン・オペレッタの世界」にどれだけガレリア座の仲間が肉薄してくれるか、という期待感であって、それが色んなパーツで具体的に実現されていくカタルシスだった気がする。「そうそう、そこのメロディーはそうじゃなくっちゃ!」とか、「なるほど、そこでそう来るか!」みたいな感覚。

身内の演目なので、各パーツについて云々すると色々と支障も出るのですが、あえて3箇所だけ。オーケストラの説得力にはブラボーでした。知っている曲、ということもあるのかもしれないけど、「この曲はこう表現したい」という意思が非常に明確で、指揮者から与えられるのではなくて、演奏している各パートがしっかり自覚を持って表現しているドライブ感とパワーがあった。序曲で既に泣いちゃっているお客様が多数出たのは、冒頭の演出の情感をがっちり受け止めた、一人一人の演奏者の意志の強さの賜物だったと思います。

もう一つは、身びいきと思われるのを承知で言いますが、タイトルロールのマリツァの確固たる存在感。低音から高音まで、とにかく広い声域をカバーしつつ、合唱も加わってのTuttiになると、他を圧倒して伸びる声。歌唱技術に関しては最近磨きがかかっているので、まぁ安心して聞いていたのだけど、感心したのは一つ一つの所作。実を言うと、マリツァを演じている人は割とSサイズの方で、ガレリア座の歌い手の中でも「ちっちゃいものクラブ」の一員だったりするんです。今回着たドレスもサイズの調整とかに結構苦労していたし。でも、体格的にそれほど恵まれていないことを補うために、一挙手一投足の細かい部分に気を配って、自分を大きく、ドレスも含めて美しく見せるためにどうするか、というのを細かく計算している様子が色んな場面で見てとれて、それが本当に効果的だった。センターでタシロと向き合った時の肘の位置、背筋の曲線の見せ方、椅子に座る時のドレスの裾さばき。そういう細かい配慮の積み重ねがあるから、マリツァが舞台に出た途端に、そこに観衆の視線が集まるし、彼女の揺れ動く心情から目を離せなくなる。ドラマの軸がぶれない。

最後に一つ。ボツェーナ侯爵夫人を演じられた中江資子さん。色んな意味で、この演目を象徴するキャラクターだったと思います。本場のウィーンオペレッタの舞台では、こういうベテランの歌い手さんが脇を固めて、とても味わい深い演技を見せてくれる。そういう、「そうそう、ウィーン・オペレッタって、こういう人が出てくるよね」という納得感。少し関西イントネーションの入った柔らかいセリフには、ユーモアだけじゃなくて、そこはかとない品の良さがあって、ハプスブルグ王国の王都でありながら、どこかしらエキゾチシズムの溢れるウィーンの地方色さえ感じられて、「そうか、ウィーンっていうのは、ヨーロッパの京都なんだなぁ」なんて別の気づきがあったり。そしてなんといっても、その歌。

中江さんの歌の魅力は、よく言われる「年齢を感じさせない」という言葉とは違う、もっと鍛錬され、洗練された要素にあるように思います。重ねてきた年輪と経験の深さを声の味わいにしっかり加えながら、あれだけ正確なピッチと歌としてのフレーズ感を維持するフィジカルの強さ。失礼ながらあの年齢の歌い手さんの誰もが維持できるものじゃない。

中江さんの表現の深さが、そのまま、20年という年輪を重ねて深まった、ガレリア座という団体そのものの表現の成熟を象徴しているような気もして、そういう意味でも、この演目を象徴するキャラクター、という気がしました。

久しぶりに一観客として拝見したガレリア座の舞台、本当に楽しかったし、感動しました。こういう舞台をこれからも作っていけるといいなぁ。私も頑張って、もっと表現の年輪を重ねないとねぇ。物理的な年齢だけは嫌でも重なってくるんだけどねぇ。