ガレリア座公演「シカゴ大公令嬢」そのいち〜「橋渡し」役としてのカールマンの真骨頂〜

6月1日、ルネ小平で、ガレリア座公演「シカゴ大公令嬢」に家族三人で参加。女房はタイトルロール、娘はチェロ、私は合唱とセリフ役。それぞれに課題を見つけ、それぞれに達成感を得た家族の一大イベントでした。結構語りたいことの多いイベントだったので、二回くらいに分けて書こうか、と思います。一回目は、まずこの演目そのものについての感想を。二回目は、出演者としての雑感を。

ということで、今日はその一回目。「橋渡し」というキーワードで、この作品そのものについて、思ったことをつづってみたいと思います。
 
現代日本で、恐らく、最もオペレッタに詳しい人物の一人であるガレリア座主宰の八木原氏が、以前から上演したいと言い続けていたのが、この「シカゴ大公令嬢」。横溢する熱いアメリカ音楽の数々と、それにがっぷり四つに組むウィーナリートの魅力。まったく異なる二つの音楽の潮流がぶつかりあうこの演目、日本ではほとんど知る人のない作品だと思います。もちろん、日本初演。ほんとによく見つけてくるもんだよねー。

この「シカゴ大公令嬢」の作曲家、エメリッヒ・カールマンは、1980年代のフォルクスオーパ来日公演「チャールダッシュの女王」で日本でも人気が出、彼のもう一つの傑作、「マリツァ伯爵令嬢」も少し知られた演目になっています。ガレリア座では、以前「マリツァ伯爵令嬢」と、「モンマルトルのすみれ」という演目を上演。このうち、「モンマルトルのすみれ」も日本初演でしたが、ラ・ボエームの世界をカールマン風にアレンジした、実にチャーミングな作品でした。

さて、このカールマンという人。Wikipediaによれば、1882年にハンガリーユダヤ系の家庭に生まれ、第二次大戦中はナチスの迫害を逃れてアメリカに移住、1942年にアメリカに帰化。戦後、ニューヨークからパリに移住し、1953年に彼の地で亡くなっています。先述の「チャールダッシュの女王」のウィーン初演が、第一次大戦が開戦したばかりの1915年(ニューヨークで1917年に初演)。次に有名な「マリツァ伯爵令嬢」のウィーン初演は、1924年(ニューヨークで1926年に初演)。こうやって見ると、二作品とも2年後にはニューヨークで初演されているんですね。カールマンがアメリカでも人気作曲家だったことが分かるし、当時のウィンナオペレッタが欧州と米国を結ぶ文化的な架け橋であったことも分かる。この延長上に、現在のアメリカのミュージカルがあるわけで、カールマンは、オペラとミュージカルの橋渡し役を果たしたウィンナオペレッタ白銀の時代の人気作家の一人だったと言えると思います。

(ちなみに、我が国の浅草オペラの絶頂期は1917年から1923年で、紹介されたオペレッタは、オッフェンバック、スッペ、ミレッカーなど、オペレッタ黄金の時代の作品まで。もう少し浅草オペラのムーブメントが続いていて、カールマンやレハールが当時の日本に紹介されていたら・・・と思うと、ちょっと残念。)

橋渡し、という言葉は、「チャールダッシュの女王」「マリツァ伯爵令嬢」「モンマルトルのすみれ」「シカゴ大公令嬢」という、彼の作品群の中でも、重要なキーワードとなります。「チャールダッシュの女王」では、没落貴族と台頭する平民の間の文化衝突、そして「マリツァ伯爵令嬢」では、ウィーンの都市型経済の発達に乗り遅れた没落貴族と、地方に豊かな財源(農場)を持つ古いタイプの貴族との間の思いのすれ違い。「モンマルトルのすみれ」では、「チャールダッシュの女王」のシルヴァとエドウィンの悲恋版のようなカップルから生まれた少女が、失われた人々の絆を再び結びつけます。価値観の衝突と誤解が生みだす葛藤が、愛と相互理解によって克服される物語。古い価値が崩壊し、新しい身分、新しい社会、新しい価値観が台頭する時代の中で、文化的な対立と融和は、カールマンにとって大きなテーマの一つでした。そこには、ハンガリー生まれのユダヤ人、という彼自身のマージナルな出自が影響していたことは想像に難くない。そして、「シカゴ大公令嬢」という演目では、その対立は大西洋を挟み、1920年代のアメリカと欧州の間の文明対立と融和、というグローバルなテーマにまで発展します。

もともとカールマンは、「マリツァ伯爵令嬢」でも、登場人物のステップに、当時最新流行だったアメリカ風フォックストロットを取り入れるなど、アメリカ音楽への傾斜を強く持っていた作曲家です。「チャールダッシュの女王」で、恋に破れたシルヴァが向かうのはアメリカへの公演旅行。先ほど書いたように、彼の作品がウィーン初演からほどなくアメリカで初演されていることを見ても、カールマンの中で、アメリカ、という国と文化は、非常に身近で、かつ魅力にあふれたものでした。第一次大戦を経て欧州が疲弊する中、アメリカが最も輝いていた1920年代。彼の地からもたらされたジャズの魅惑的なリズムとメロディは、カールマンを始めとする欧州の音楽家の魂を熱くしたのでしょう。彼の中に流れるユダヤの血も、ユダヤ人国家の性格を持つアメリカへの傾斜を深めたかもしれません。

しかし一方で、急速な欧州的価値観の崩壊は、反動的かつ狂信的なナチズムの台頭を生みます。ヒットラー率いるナチスが台頭し、ミュンヘン一揆によってその党勢が強まるのが1923年。「マリツァ伯爵令嬢」が初演された前年になります。「シカゴ大公令嬢」でシャンドールが歌うように、アメリカ文化によって欧州の伝統が踏みにじられ、汚された、と感じる機運が各地で盛り上がる中、「シカゴ大公令嬢」は、1928年にウィーンで初演されます。

その冒頭、舞台上のジャズバンドがいきなりチャールストンを大音量でぶっ放した時、当時のウィーンの聴衆は、横っ面をひっぱたかれたような衝撃を受けたのじゃないか、と想像します。アメリカ生まれのヒロインがチャールストンを、スローフォックスを踊り、ウィーンの伝統の象徴である王子とワルツを踊り、そして二人の恋が成就する。この演目は、オペレッタ作家、という立場でカールマンができる最大かつ最高の政治的なプロテストだったような気がしてなりません。欧州で巻き起こるナチズムなどの反動へのプロテスト。マージナルなバックグラウンドを持つカールマン自身の、異文化同士の融和と平和を思う、祈りに近いメッセージ。「世界がこんな風に結ばれればよいのに」という強い思いが込められたのが、この作品ではなかったのか、と。対立し、引き裂かれ、決定的な悲劇に向かって突き進もうとする世界に向けて、愛し合おう、理解し合おう、我々は共に歩むことができるはずだ、というカールマンの叫び。まさに、「橋渡し」役としての彼の一世一代の挑戦。

「シカゴ大公令嬢」がアメリカで初演された1929年、アメリカを大恐慌が襲い、アメリカが最も輝いた時代は終焉を迎えます。世界は第二次大戦というカタストロフに向かって転げ落ちていき、カールマンはアメリカに亡命。「シカゴ大公令嬢」はナチスドイツによって「退廃音楽」のレッテルを張られ、上演禁止となり、1990年代にデッカが「退廃音楽シリーズ」のCD録音を行い、21世紀にフォルクスオーパが復活上演するまで、完全に忘れられた作品となりました。カールマンの祈りは当時の人々には届かなかったのかもしれません。でもその熱い挑戦者魂が生み出した音楽は、時を超えて現代の我々を魅了する。そこに込められた彼の祈りと共に、今の対立と混乱の時代に、もう一度上演されるにふさわしい演目なのじゃないかな。そんな風に思います。