表現の力、技術の力、表現したいもの

ブログに書きたい気持ちがたまってきたのですけど、選んだテーマが大きすぎてちょっと収まりがつかない気がします。まぁそれでもとにかく書き連ねてみましょう。どこまでいけるやら。

テーマは大仰なんだけど、きっかけは些細なことで、土曜日に放送された、「世界ふしぎ発見」を見た、というのが発火点。浅田真央さんがレポーターをやる、というので見たのだけど、なんか、圧倒されてしまって、これじゃあ本職のタレントさんはたまらんなぁ、と思った。飾らない、とか、天然、と言った言葉ではちょっと言い難い衝撃。

一番の衝撃だったのが、真央ちゃんのレポートがしばらく続いた後で、次週予告の映像が流れたとき。いつもの「ミステリーハンター」のお嬢さんが出て来て、元気いっぱいの素敵なレポート姿の一端を見せてくれたんだけど、これがものすごく「作りもの」っぽく見えてしまったんだね。普段見慣れているテレビの世界での表現が、いかに非日常的な「技術」によって人工的に作り上げられたものか、というのが一瞬で表面化してしまった気がした。

もちろん、いわゆる一般人がレポートをやっても、浅田真央の自然さ、天然さは決して出せない。TVの世界での「自然な表現」を作り上げるためにはそれなりの研鑽と修練が必要で、次週のミステリーハンターの方も、そういうTV的表現の中で生き残るために、血の滲むような努力を重ねてらっしゃるのだと思います。浅田真央という人の破壊力は、そういうプロの努力や表現の約束ごと、技術を完全にぶっ飛ばした所で、TVの世界の表現に耐える、あるいは超えるパフォーマンスを見せてしまうこと。北島マヤ姫川亜弓ではないけれど、一生懸命化粧品を厚塗りして美人顏を作っても、素顔美人に勝てない、みたいな。

この仕事で食っていく、という強い意思や姿勢の違いでもあるのだろうけど。「世界ふしぎ発見」という番組がそもそも持っている、「自分の知らないことを見たい、知りたい」という欲求を視聴者と同じ視線で共有し、その欲求を満たすために番組に参加した浅田真央と、その番組からもらうギャラで食っていくために旅をしているレポーターの方々では、現場で見聞きするものへの対し方が根本的に違う。

まとめるために、強引に、我々のやっている舞台表現に話を持っていきます。舞台表現、特にオペラやオペレッタ、なんてのは、恐ろしく反自然的な表現です。日常生活であんなでかい声で愛だのなんだの数百人に向かって叫んでいるやつはいない。それに演技まで加わってしまうと、表現することは決して自然な行為ではない。それを支えるための技術や身体的な鍛錬も、生まれながらの天然なものだけで勝負できるものじゃありません。

でも、歌も芝居も、観衆の心に訴え、感情を同化させるために、どこかで「自然」な表現、日常にある愛や悲しみや怒りや驚きといった感情を伝えなければならない。よく舞台を作っている時に意識するのは、「自然」な演技ではなくて、「自然に見える」演技です。お客様が見て、ささやき声で密談をしているように見える芝居で、本当にヒソヒソ声でセリフを吐いたら、お客様に聞こえない。キチンと客席に届く張った声で、なおかつ「ささやいている」ように自然に見える演技はどうしたらいいか、演者はそれを技術として学ぶ。でもその技術が先行し過ぎてしまうと、表現が自然さを失ってしまう。

一番いいのは、対象に対する思いや感情をきれいな気持ちで保ち続けて、それをお客様に伝えるために、自分の技術のどの引き出しを使うか、ということを真剣に考える、そのバランスがうまくとれているパフォーマンスなのだろうけど。浅田真央のパフォーマンスには、彼女自身の美しさと、自分を見せることに対する自信、という天然の素材があって、それとレポートする対象への好奇心、貪欲さのバランスが高い所で均衡している感じがする。

同じようなことを感じたのが、今日聞きに行った、仙川のアヴェニューホールであった、ケイ企画の「リヒャルトシュトラウスを訪ねて」という演奏会。女房はここで、四つの最後の歌、という歌曲を歌いました。例によって身びいきな感想になるけれど、技術的にはまだまだ磨かなければいけない点がいっぱいあるものの、自分がこの作品に対して感じているものをしっかり捕まえて、それをどうお客様に伝えたらいいか、自分の今持っている技術の引き出しでできる範囲で、最大限伝えるにはどうしたらいいか、歌い手が非常に計算しながら、時には綱渡りしながら演じている、バランスの良い歌唱だったと思います。大杉祥子先生の熟練のピアノ伴奏にも助けられて、いいパフォーマンスになりました。

技術を磨くことはもちろん必要なんだけど、その前に、自分は何が伝えたいのかを、見失わないこと。結局そこに落ち着くのかな。おお、どうなることやらと思ったけど、何とかまとまったぞ。ははは。