ということで、地震発生直後に、METに見に行った「ルチア」のことを書きます。12日に見に行ったのだけど、今まで書けずにおりました。昨日、WQXRのライブ放送があり、狂乱の場の一部を車で聞いていて、ああ、オレは世界中どこに行ってもナタリー・デセイという歌い手を支持する、と改めて思った。
指揮:Patrick Summers
Enrico Ashton : Stephen Gaertner
Raimondo : Kwangchul Youn
Luchia : Natalie Dessay
Alisa : Theodora Hanslowe
Edgardo : Joseph Calleja
という布陣でした。
デセイさん以外の歌い手で言えば、Edgardo役のJoseph Callejaさんが素晴らしかった。パバロッティを思わせる明るいまっすぐなテノール。響きがクリアなので余計に、曲の悲劇性が強まる。若手の期待株らしく、METの観客も盛んな拍手を送っていました。
あとはRaimondo役のKwangchul Youn。小柄ながら、豊かに響く素晴らしいバス。安定感のある抑制された歌唱と演技。EnricoのStephen Gaertnerは、声はよいのだけど、オーケストラとの相性が悪かったのか、今一つ歌の流れが滞るような感覚がありました。合わせの時間が少なかったのかなぁ。これは指揮者の問題なのかもしれないけど。
18日の舞台を鑑賞された方が、写真入りのルポを掲載されているのを見つけました。こちらです。
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http://nylife09.blog28.fc2.com/blog-entry-393.html
この方も書かれていますが、演出はどこかしら映画的で、非常に分かりやすい。歌に合わせて合唱が一斉に動く振りつけが現代的。もっとも印象的だったのは、結婚宣誓の場面にEdgardoが駆け込んでくるシーン。合唱も含めたこの長大な重唱の間、写真屋さんが何事も起こっていないかのように、記念撮影の準備を延々と続けている。茫然と歌い続けるLuciaとArturoを座らせ、その後ろにEnricoやAlisa、Raimondoを立たせ、合唱の群衆を並ばせ、といった作業を淡々と続け、歌い手は魂が抜けたかのように、その写真屋さんの指示に従っていく。重唱のラストで、パン、とフラッシュを焚く。賛否両論あるなぁ、と思いながら見ていました。私個人としては、一つ間違うと歌以外のところに意識がいきすぎて、邪魔な演出になりかねないなぁ、という感想。ちょっとやりすぎかな、という気もしています。
全体の演出としては、ブロンテの「嵐が丘」をすごく想起しました。泉のシーンでの亡霊の使い方、Edgardoの自決のシーンのルチアの亡霊の使い方など、舞台はスコットランドなのだけど、「嵐が丘」のキャサリンの亡霊を思い起こすシーンがたくさんある。泉のシーンを覆う重苦しい曇天も、嵐が丘っぽい。ブルーを基調とした美しい舞台装置、特に、狂乱の場の巨大な階段と、背景の月が美しかった。
そしてデセイさん。東京での椿姫の公演でも書いたのだけど、デセイさんの声は、決して会場全体を揺るがすような、床が底鳴りするような豊かな声量ではありません。また、グルベローヴァのように、本当に針の穴に糸を通すような、張り詰めた糸を絶妙な弓の塩梅で鳴らしていくような、硬質なダイヤモンドのきらめきのような音を飛ばしていくコロラトゥーラでもない。一つ一つの音を完ぺきに美しく鳴らしていく、そのテクニックは素晴らしいと思うのだけど、デセイさんの魅力はなんといっても、その持ち声の素晴らしさだと思う。持っている声のつややかさと潤い。ダイヤモンドではなく、きらきらと流れる透き通った水のような。演技力についてはもう何も言うことはなくて、Edgardoの自決のシーンで歌わずにただゆるやかに動いているだけなのに、その存在感の素晴らしいこと。でも、デセイさんはやっぱり、この奇跡のような美声を、完ぺきなブレスコントロールで客席にしみこませていく、そのテクニックが魅力なんだなぁ、と思った。
その美声も、何度も危機をくぐりぬけてきたことはご存じの通り。Wikipediaによれば、2001年・2002年と声帯の手術のためにシーズンをキャンセル、2005年にも故障が再発し、レパートリーを見直さざるを得なかったとか。その新しいレパートリーに「ルチア」が入ったこと、それをこのMETで見られたことを、神様と、デセイさんの不屈の努力に感謝したいと思います。
狂乱の場が終わって、METはブラボーと拍手が鳴りやまず、カーテンコールでも、デセイさんには惜しみない拍手が送られました。この稀代の歌い手と同じ時代を共有でき、その本番舞台を見ることができる幸せをかみしめた時間でした。