先日の日記に結石の顛末を書いたら、色んな人にご心配をかけてしまって申し訳ありませんでした。おかげさまで、あの日記を書いた翌日の木曜日、会社で小用を足していたら、
「ぷっ」
という感じで何やら小さなものが飛び出してきて、それ以来、血尿も痛みも収まっています。なんか、ぶどうの種を口で飛ばした時のような感覚だったので、女房と娘にそう言ったら、娘が、
「パパはオチンチンでぶどうの種を飛ばしたことなんかないでしょ」
と当たり前の突込みを受けてしまった。そりゃそうだ。
しかし、血尿が出て、段々尿が普通の色に戻ってくる過程を見ていると、尿っていうのは腎臓が血液を濾して作るんだなぁ、というのを実感するやね。しかし、体調が一部崩れたせいか、今度は持病の十二指腸潰瘍が再発。体のどこかが不健康な状態はまだ続いています。本番までに治したいのだけど、多少体調が悪い方が歌がいい、なんて言われたりしているので、どうしたもんだか。
と、体調の話は置いておいて、今日は、本屋さんで見つけて思わず購入してしまった、ル・グィンの「ギフト」の話を。
中学生時代に、ル・グィンの「ゲド戦記」にどっぷりはまった、という話は以前この日記でも書いていて、その原体験があるから、映画の「ゲド戦記」は絶対に見ないぞと心に決めております。そもそも、「ゲド戦記」の第四作以降の作品群も、今ひとつ入り込めずにいて、やっぱり私にとっての「ゲド戦記」は3部作だよなぁ、と今でも思っている。
先日、娘が大好きな「ブンダバー」シリーズの最新刊が出た、というので、本屋さんに買いに行く。本屋さんに行くとどうしても店内をうろうろしてしまうのは、活字中毒の我々夫婦の共通の癖で、意味もなく目に付いた本を買ってしまう、というのも共通の癖。最近はなるべく図書館で借りるようにしているのだけど、児童書のファンタジーコーナーに並んでいた「ゲド戦記」の隣に、「ル・グィンの最新ファンタジー」ということで「ギフト」を見つけた時には、何の迷いもなく手にとってレジに並んでおりました。ル・グィンは1929年生まれだから、御年80歳。その年齢で生み出された最新ファンタジーシリーズ(三部作の予定とか)、と聞いただけで、物語の中身に入るより前にわくわくしてしまうじゃないか。
というわけで「ギフト」です。以下、多少ネタバレの部分に踏み込むかもしれないので、未読の方はご注意を。
巻末の訳者あとがきにも、「物語の冒頭は静かに始まる」と書かれていましたが、物語を一通り読み終えた後も、その「静けさ」が非常に印象に残りました。静けさ、というか、非常に豊穣な静寂、という感覚。ものすごく研ぎ澄まされた、最小限の情報量の中に内包されている世界観の豊かさ。まさに、視界を布で覆われた主人公が、耳と体で感じ取っている世界のような、そんな静けさ。昔見た、「山の焚火」というスイス映画を何となく思い出す。あれも聾唖の少年の話だったな。
荒々しい破壊のシーンにおいても、戦闘シーンにおいても、その静けさは決して壊されない。実際には、主人公の心は静けさからは遠く、常に、苦悩や憎悪や悲嘆といった激しい感情に揺れ動くのに、世界を包み込む森閑とした静寂は決して揺らがない。それは、「高地」という物語の舞台そのものの持っている静寂と、その静寂の中に生きる聖なる「ギフト」を与えられた人々のひっそりとした暮らしそのものが、華やかさや賑やかさから遠く離れているから。その静けさが、本当に心地よい。
物語は、さほどひねった内容ではなく、むしろ親子や家族の持つ宿命を淡々と描き出していくシンプルなもので、「ゲド戦記」や「闇の左手」のような、一つの世界そのものを描き出すダイナミックな物語を期待すると肩透かしをくらうかも。でも、「ゲド戦記」のようなマクロコスモスを描くのではなく、「高地」というミクロコスモスの中の「血」の葛藤を描き出しながら、ル・グィンの物語は決してその神話性や普遍性を失ってはいません。そのル・グィン的な多層的物語世界に興奮するか、あまりにも静謐な物語に退屈してしまうか、ちょっと評価が分かれるところかもしれないな、と思って読みました。ファンタジーに、めくるめく異世界の「冒険」を期待する人たちには、ちょっと違和感があるかもしれません。
ル・グィンは、様々な物語の中で、必ずと言っていいほど、「旅」を描いてきたことで知られている作家ですが、「ギフト」は主人公たちの「旅立ち」で終わります。その意味でも、この「ギフト」という作品は、一つの物語として完結しながら、一つのシリーズの幕開けとして、続く物語への予感に充ちています。ル・グィンの新たなシリーズをリアルタイムで体験できる、ということ、それだけで、物語がどんな旅に我々を連れて行ってくれるのか、今からワクワクしてしまうのは、多分私だけではないだろうな。今から新刊が楽しみです。