昨夜、近々身内でやるコンサートのための曲を自主練。私の最も信頼する最も辛辣なトレーナー、我が女房どのにレッスンしてもらう。曲は、「愛の妙薬」のドゥルカマーラの登場の歌です。
自分の過去の公演というのは恥ずかしくって見る気がしない、というのは、以前この日記でも書いたこと。ガレリア座でやった「愛の妙薬」で、私はこの「ドゥルカマーラ」というインチキ薬売りの役をもらったのですが、公演ビデオを見るたびに落ち込む。ヘタなんでね。しょうがないんですけどね。なので、今回は、自分の中で、「敗者復活戦」という気分があるのです。今なら、もう少しまともに歌えるのじゃないだろうか。
例によって、女房に罵られ、ボコボコにされながら、1時間練習しました。個々のフレーズの捌き方について、かなり細かいダメをもらったので、あとは自分なりに整理しながら、カラオケボックスやら通勤電車の中での自主練になります。今朝もそのレッスンの録音MDを聞きながら出勤してきたのだけど、なるほどと思う貴重なアドバイスが沢山ある。ダメ出し女、健在。
後はどこまでこの課題を自分のものに消化できるか、なんだけど、こういう時、自分の「音楽感」のなさ、というのがすごく悔しいし、歯がゆい感じがする。できない言い訳になりそうで嫌なんで、あくまで自分の課題として、なんだけど、音楽に対するセンスのなさ、というのが、巨大な障壁として自分の前に立ちはだかっている気がする。
幼児期に音楽教育を受けなかった、といった外部要因に責任転嫁することはできないと思っています。幼児期に音楽教育を受けなくても、音楽的なフレーズ感や、リズム感をちゃんと身につけている人は一杯います。逆も一杯いる。素養、と言う意味での「基礎」ではなく、音楽に対する基本的な感性、という意味での「基礎」が、自分に決定的に欠けているんだよなぁ、というのを、女房とのセッションで常に実感させられる。
女房が指導中によく、「こうでしかありえない」と言う言葉を使います。「この音符、このフレーズの中で、この音符がそんなに長くなるなんてことはありえない。」とか。逆に、その「こうでしかありえない」長さや高さに音がはまった時の快感、というか、フィット感というものが、どうしても私の中で腑に落ちないことがある。何度やっても自分でピンと来ない。表現するテクニック以前の問題で、何を表現すればいいのか、という所がちゃんとつかめていない感じがする。そういうもどかしさ。
そういうポイントをきちんとつかめれば、音楽の世界というのはもっと豊穣で、もっと楽しい世界に広がっていくんだろうな。そういう憧れはあるんだけど、どうやればいいのか。自分の中で、ストンと腑に落ちる瞬間、何か、「ピタッとくる」感覚のようなものを、ひたすら体感し、探求していくしかないのかもしれないんだけど。そもそもそれを自分で自覚して、体感できてない、というのが問題なんだよねぇ。音痴の人に「音がぴったり合った快感」をいくら説いても無駄ですよね。それと同じくらい、根本的に、音楽表現者としての資格に欠けている気がする。
アマチュアなんだからいいじゃん、という人もいるかもしれないけど、そうは思いません。アマチュアだからこそ、そういう、「ピタッと来る瞬間」の快感をひたすら追い求める姿勢が必要なんだと思う。気持ちいいことをやる、気持ちいいことしかやらないのがアマチュアですから。
そういう「気持ちよさ」「心地よさ」を感じるだけの感性が自分に欠けている、というのが、すごく悔しい。そういう自分であっても、オペラの舞台に立てる、というのは、オペラが総合芸術であって、音楽の感性以外の能力でも、舞台上で勝負できないことはないから。でも最終的には、やっぱり、「音楽」が与えてくれる快感を追究していくのがオペラであり、オペレッタのはず。
ガレリア座に入った頃から、「xxさん、なんで音楽やってるの?どうして演劇人にならないの?」と、何度か問われたことがあります。その言葉を、「キミは音楽を表現する資格に欠けているんじゃないの?」という厳しい言葉として、今は実感しています。以前この日記にも書いた、「なぜ音楽をやるのか?」という問い。その音楽が好きだから、と答えるためには、その音楽の魅力をもっと掘り起こすために、常に常に探究的であらねば。