大体この日記は、デスクワークの息抜きに書いているんですが、打ち合わせが多くてデスクに向かう時間自体が少なくなってしまうとどうにもならなくなっちゃうんです。先週はまさにそんな感じで、全然時間取れず。とりあえず、先週のインプットを並べてみますかね。
・録りためた映画、先週は、「どろろ」と「ガメラ〜小さな勇者たち〜」を見る。ちょっと作り手の思い入れが強すぎる感じがして、映画の出来不出来、という点では色んな意見がありそうだけど、でもその思い入れ自体は肯定的に受け止めてあげたい気がする。ちょっと精神的に危なっかしいような、脆い感じもするんだけどね・・・そういう意味では、どちらの映画も、力のある脚本、とはちょっと言い難いけど、真摯に作られた映画、という感じがしました。
・「ちりとてちん」がなんだか悲しい展開になってきましたねぇ・・・女房に至っては、誌面にあった「師匠、行かないで!」というタイトルを見て、「ステラ」(NHKの宣伝誌)を書店で衝動買いしてきてしまった。ここ数週間は目が離せないなぁ・・・
・週末、降りしきる雪の中、娘と雪だるまを作る。車の上に積もった雪だけで、相当大きな雪だるまが出来ました。娘は手袋をぐしょぐしょにして、寒い寒いと言いながら大喜びで雪だるまを作っておりました。パパのと娘のと、大小1つずつ、裏庭に仲良く並んでいます。今朝の冷え込みでカチンコチンになっているだろうから、かなり長持ちしそうだね。
・日曜日は、先日も日記に書いた、Fちゃんを偲ぶ会の打ち合わせに、調布教会へ。女房が歌う歌の伴奏者の方と打ち合わせ。女房は「千の風になって」と、アヴェマリアを歌うことになりました。少し声を出したりしたのだけど、お堂の中にとてもきれいに声が響く。教会ってのは演奏場所としてはとってもいいところだね。幼稚園のお友達が沢山来てくれそうです。子供たちにきちんとFちゃんの思い出を伝えられるように、朗読の方も頑張らないと。
・日曜日はそのまま、調布駅前の布田天神へ。女房が、調布のイベント情報をチェックしていて、神社の境内で豆まきがある、というので、見に行きました。女房も私も、寺社で開催される豆まきに行くのは初めて。雪の中、沢山の方々が、境内のお神楽舞台の前に集まっている。お神楽舞台の上には、年男・年女の方々が裃を羽織って、大黒様の打ち出の小槌で豆をお浄め。そのあと、その豆を、集まった人たちに向けて投げる。3人で頑張って、3人分の豆袋を確保しました。福引や無料の甘酒振る舞いなどもあって、地域に根付いたイベント、という感じ。こういうのっていいなぁ。
今日は、この中で、「ちりとてちん」の中で出ていた、師弟関係の話を少し書いてみたいと思います。
「ちりとてちん」の中でも触れられていて、「スタジオパーク」に出ていた桂吉弥さんもおっしゃっていたのだけど、落語家ってのは、自分の師事する師匠以外の師匠にも、お稽古をつけてもらえるんですってね。実際には、自分のついた師匠にほれ込んでいるので、他の師匠にお稽古をつけてもらう、というのはあんまりないらしいけど、どのお師匠さんも、快く他の師匠さんのところに弟子を送り出すし、受け入れる側も喜んで教えてくれるそうな。「落語というのはみんなの財産だから、みんなで受け継いでいくものだ」という哲学なんだって。
一方で、私がよく接することがあるプロの声楽家の方々を横で眺めていると、音楽の世界では、(日本に限られた話かもしれんが)師弟関係ってのは絶対で、他の師匠に教えを乞う、なんてのはご法度だったりする。極端な話、お師匠が許可してくれた演奏会にしか出演できなかったり。ガレリア座で昔歌っていた音大の学生さんが、「この舞台で歌っているのは師匠には内緒なんですよ」と言っていた。あなたの声のためにならないって怒られるからだ、というのだけど、それだけとも言えないような。
知り合いのアマチュアの方が、ある先生について習っていて、ちょっと限界を感じてきた。少し他の先生の指導も仰いでみようかな、と、他の先生の短期講座みたいなのに通ってみたら、それだけで、以前の先生との関係がギクシャクして、以前の先生のレッスンを受けられなくなってしまったんだって。結局、一番の要因は、「オレの指導じゃ物足りないってのか?」という、教える側のご機嫌の問題なのか?という気もする。「私の指導に沿って、私が与えるものをきちんとこなしていけばいいのに、それだけじゃ足りないってのかよ」という話。そういう声楽家の狭量が原因、と切り捨ててしまうのは簡単なんだけど、そういう単純な問題でもない気がするんだね。
実際、声というのは自分の身体が楽器だから、ヘタな歌い方や癖のある歌い方が身についてしまうと、修正するのにすごく苦労したり、あるいは声帯を壊してしまうことだってある。かなり慎重に、時間をかけて正しいフォームを身につけていかないといけないもので、教える側としては、「この生徒さんはこういう段取りで育てていこう」というプランをきちんと作っている。そのプランからはずれた道を生徒さんが勝手に辿りだすのは、教える側としては非常に困ること。
一方で、その人にとって最適のフォームにたどり着くための道筋、というのは一つじゃなくって、色んな山頂へのアプローチの方法がある。生徒さんによって、一番その人にあったアプローチを考えてあげるのが先生の役割なのだけど、先生だって人間なので、自分の知っているアプローチ、自分の知っている道筋の中からしか選べない。違う道筋を生徒さんが求めていても、気が付かなかったり、あるいはなんとか自分の知っている道筋を辿らせようとする。そこに無理が生じる余地があって、そういう、先生への不満とか先生とのトラブル、というのも、声楽家の間ではよく聞かれる話です。
同じことは落語の世界にもきっと当てはまるはずで、にも関わらず、落語の世界と音楽の世界で師弟のあり方が異なっているのは何故なのか、といえば、師弟の間の信頼関係のベースというか、深さが全然違う・・・という所が、まず一つにあるような気がする。桂吉弥さんもおっしゃっていたのだけど、落語の世界で、師匠に対する弟子の思い、というのはもう恋愛感情に近いところがあって、「なんとかこの人みたいな人間になりたい」という全人格的な「傾倒」だったりします。そういう強固な師弟関係で結ばれていると、弟子が他の師匠のところに出稽古に行こうが、必ず自分のところに戻ってくる、という信頼感があるし、逆に、「お前はあそこで学んだ方が伸びる」という親心も加えやすいのかも。
その一方で、ちょっとうがった見方をすれば、落語家になろう、という人の絶対数が少ない、というのもあるのかも。お弟子さんが少なければ、自然と、その少ない卵たちを、先達たちが力を合わせて育てていこう、という機運が、落語界全体に共有される。さらに言えば、そうやって力のある若手が育って、落語界が活性化し、落語ファンが増えれば、師匠たちだって潤う。桂吉弥さんも、「落語という共有財産をみんなで守り、継承していくことで、みんなでそれで稼がせていただくわけです」という言い方をしてらっしゃいましたっけ。要するに、放置しておけば縮小していこうとするパイを、拡大あるいは維持するための仕組み、と言えなくもない。歌舞伎の御曹司たちやお弟子さんたちが、歌舞伎界総出で育ててもらっている姿とも重なるよね。
一方で、声楽家の世界、というのは、志望者が多く、次々と新人歌手が登場している割に、全体の収入機会のパイ自体が小さくて、さらに縮小傾向にあったりする。自分の弟子は、明日になれば、限られたパイを奪い合うライバルになるかもしれない。そういう環境下では、先生は自分の弟子を、自分の配下に置いておきたい。自分が持っている仕事の範囲内で、自分の手が届かないところを弟子に任せる。そうやって、自分が、弟子の仕事の「胴元」という立場を維持することで、自分の収入源も確保しつつ、弟子が自分の競争者として自分の仕事を奪っていくのを未然にコントロールすることもできる。ものすごく歪んだ見方かもしれないけど、そういう側面ってあるのじゃないかなぁ。
そういう側面を、純粋じゃない、なんて非難するのは簡単だけど、そう簡単でもない気がする。普通の職業であれば当然のようにある、収入機会の分配、という機能が、師弟関係の中で実現している、と考えれば、とても大事な仕組み。音楽家だって霞を食って生きていくわけにはいかない以上、そういう仕組みは必要なんじゃないか、と思います。実際、ある声楽家の団体のことを評して、「あれは声楽家の互助会だから」とおっしゃっていた声楽家の先生がいらっしゃいました。所属することで、仕事が適当に割り振られ、それなりに食いっぱぐれることがない。そういう声楽家の先生方のネットワークによって支えられている世界で、あっちの先生の縄張り、こっちの先生の縄張り、と飛びあるいている人、というのは、既得権を食い荒らす存在、ということで異端視されてしまう・・・
女房が言っていたのだけど、「結局、限られたパイを奪い合っている業界と、パイ自体を大きくしていかないと生き残れない危機感のある業界の違い」なのかもしれない・・・という気がします。ちょっとヒネた見方かもしれないけど、声楽の世界の師弟関係っていうのは、なかなか微妙なものがあるなぁ・・・と、「ちりとてちん」の、ある意味幸せな師弟関係を見ながら、つらつら思ってしまうのでした。