「線路に人が立ち入り」

朝の通勤ラッシュでうんざりするのが、色んな事故やらトラブルでの突然の遅延。信号機トラブルだの、保安機の故障だの、色んな原因が車内アナウンスで説明されるのですが、その中で、もっとも訳が分からないのが、「線路に人が立ち入りましたので」というアナウンス。

色んな設備の不具合、というのは、仕方ないなぁ、安全優先だもの、と納得するしかない。「車内で急病人が発生しましたので」、とか、「車内トラブルが発生しましたので」とかは、なんとなく状況が想像つくから、理解できる。しかし、なんだって、朝のラッシュアワーの忙しいときに、「線路に人が立ち入」ってしまうわけ?

本当に「線路に人が立ち入って」いるのか、というのも、以前からどうも疑問だった。ふらっと迷い込んでしまう、なんていう話であれば、朝のラッシュアワーに集中する理由がよく分からない。ひょっとして、「飛び込み自殺」といわないで「人身事故」と言うのと同じような一種の符丁なのかも、なんて思っていたのだけど、じゃあどういう状況のことを、「線路に人が立ち入った」と言っているんだろう。よく分からない。「線路上に人がいる」という状況が、朝のラッシュアワーに発生する、と言葉通りに捉えてみて、なぜそういうことが起こるのだろう、と色々考えてみる。
 
(1)閉まりかけた踏み切りで、慌てて飛び込んだお客様が線路内で立ち往生してしまった

これなら、ラッシュアワーに多発する理由も分かる気がする。どうしても乗りたい電車に間に合わないから、というので、踏切が鳴り始めた瞬間にダッシュしている人なんか、しょっちゅう見ますもんね。でもやっぱり疑問は消えなくて、電車が遅れてしまうほど踏み切りの中で人が立ち往生するかしらん?ブレーキかけないといけないほど電車が近づいてきてから人が入ってきたら、轢かれているよね。人身事故になっちゃうよね。電車がブレーキかけてから踏み切りから飛び出して逃げてった、というのだったら、すぐ再発進すればいいよね。あんなにダイヤが乱れるだろうか?

(2)ホームから落ちてしまう

ラッシュアワーならこういう事故も起こりやすいんじゃないかな、と思うのだけど、これだったら、「ホームから人が落下してしまったため」って言えばいいよね。実際、そうアナウンスしているのを聞いたこともある気がする。「線路に立ち入った」、という言葉には、どこかその人が主体的かつ能動的に線路に入っていく意思を感じるよね。

(3)痴漢が線路に逃げる

ネット上で誰かが唱えていた説。「最後の逃げ場所なんだろう」だって。いや、いくら逃げ場所がなくなっても、そこまで開き直ることはないんじゃないかなぁ。
 
・・・と考えて、よく分からんなぁ、と思っていたら、昨日会社の同僚が、

「あれって、自殺未遂ですよね?」

と言っていて、「おお、それは一番ありえそうだ」と納得。先日も、自殺未遂の女の人が線路に飛び込んで、とめようとした警察官を振り切って暴れているうちに、警察官もろとも電車にはねられた、という、悲惨かつはた迷惑な話があったばっかりですよね。死ぬ気だから線路上をうろうろして、なかなか立ち去ろうとしない。これを排除するのに時間がかかって、復旧が遅れる、というのも分かる気がする。にしても、ラッシュアワーにやることはないだろうが、と思うけど、ラッシュアワーの駅で会社に向かっていると、心底人生イヤになっちゃう、という心理も分からんでもない。

「線路に人が立ち入った」という、原因を明示しない言い方は、「人身事故」という言い方と曖昧さにおいて共通している。「自殺未遂のお客様が線路に立ち入ったため」なんて言えないからねぇ。ほんとに自殺未遂かどうかは警察が決める仕事だし、鉄道会社としては、「線路に人が立ち入った」という事象だけを客観的に報告するしかない。これだけ自殺の多い日本社会をどうしていくべきか、なんて大上段な議論をする気は全然なくって、むしろこの客観的な車内放送が、奥歯にモノがはさまったような感じに聞こえて、ラッシュアワーのストレスを増幅する、という点に着目しているんですけどね。自殺未遂といわれれば、多少なり同情心も湧くし、どこか納得する気分にもなるのだけど、「線路に立ち入った」とだけ淡々といわれると、「このくそ忙しいラッシュアワーに線路に立ち入るとはどういう了見だぁ!?」という気になる。

世の中わりと、こういうことって多い気がするんだよね。警察発表や新聞報道とかは、客観的な事実しか記述しないから、「xxさんがyyさんを殴った」「aaさんがbbさんを殺した」といった事実だけを記述する。それだけ取り上げると、「けしからん!」という話なんだけど、色々とその背景を知ってみると、xxさんやaaさんという加害者の方にも、どうにもならない理由があったりするのかもしれない。柳沢大臣の「産む機械」発言にしたって、「産む機械」なんて言葉は一切使っていないのだけど、該当部分だけが切り取られて、「産む機械」という言葉に簡略化された挙句に、その言葉が独り歩きして人の感情を損なう。もちろん、柳沢さんのたとえ話自体、軽率で賢くない発言だとは思うけどね。

客観化・単純化・パターン化、というのが進んでいくと、言葉っていうのはえらくギスギスと、人の感情を逆なでする道具になっちゃうんだねぇ。