女房が最近、ある声楽家の方とお話をしていて、「私は『ガレリア座』というところで、次の公演でこの役を歌いなさい、と言われて、それをなんとか仕上げていく、というやり方で、歌の勉強を続けてきたんです」という話をした。声楽家の方は相当驚いて、「そういう方ってあんまりいませんよねぇ」という話をしていたんだって。
でも、それってなんだかおかしい話じゃないかなぁ、と女房と言い合う。歌を歌う、というのは、人に聴かせるために歌うのだし、そうやって人を楽しませて、お金をもらって稼ぐのがプロの声楽家のはず。人に教えて稼いでいる人もいるけど、何を教えるか、といえば、「人に聞かせる歌を歌う方法」を教えているはずですよね。そのはずなんだけど、その歌い手が、中々、人前で歌う機会を見つけることができない。結果としてその勉強は、ひたすら楽譜と歌い手と教師の間での閉じたキャッチボールに終始してしまう。中にはそれで満足してしまっている不思議な「歌い手さん」たちがいて、これはこれで何のために歌っているんだかよく分からんのだけど。
「ガレリア座」というところで公演を重ねていると、いかにお客様に伝えるか、ということが表現の全てだ、ということをイヤでも実感させられます。日ごろの鍛錬も、身体フォームも、楽譜の読み込みも、イメージトレーニングも、全てが「お客様にどう伝えるか、どう見えるか」という点に集約されていく。目の前にいる指導者ではなくて、練習場の壁の向こうに、客席を常にイメージしながら歌うこと。
でも、世の中には、楽譜と先生だけに向き合って、自分の技術を磨いてはいるのだけど、それをお客様に見せる機会のない歌い手さんが結構いる。それで満足している人は別として、機会を探しているのに中々見つからなくて、悶々としている歌い手さんもたくさんいる。山口悠紀子先生が、ご自分の主宰されている「ラ・ムジカ・フェニーチェ」の話をしていた時に、「リサイタルをやりたがっている歌手なんか、一杯いるのよ。でも、お金がなかったり、チケットを売るネットワークがなかったり、事務所がやらせたがらなかったり。やっぱり儲からないからね。だから意外と、えっ、あの人が?と思うような人が、人前で歌う場所が欲しくてうずうずしていたりするの」とおっしゃっていたことがありました。そういう意味では、舞台公演を前提にして歌の練習を続けている我々っていうのは、本当に幸せな状態にあるのかもしれない。
でも、そういう活動を続けていると、きちんと人前で歌える自分の「レパートリー」が増えていかないんですよね。女房と、色んな企画の話をしていて、例えばサロン・コンサートの企画の話なんかしていても、「キミはまだまだ、人前でソロや歌曲を歌える歌い手じゃないなぁ」と言われます。大きな通し舞台の中で芝居と一緒にごまかすことはできても、「これが私の持ち歌」ということで、自信を持って仕上げた一曲、というのがない。それを常に自分の中で更新したり、追加していく努力を怠っているから、いつまでたっても技量も向上しないし、レパートリーは貧困なまま。
やっぱりこれではいかんだろう・・・と思っていて、今年は自分なりに、レパートリーを増やす努力をしようか、と思い始めています。1年間かけて、イタリア古典歌曲を1〜2曲、オペラのアリアを1曲・・・くらいのスローペースになっちゃうだろうけど、しっかり向き合って仕上げていく。一つ間違うと、「与えられた楽譜をいかに歌うか」という勉強になってしまうのだけど、自分なりに目標を作って、どこかで「人前で歌う」機会を作れればいいな、なんて思っています。ここにこんなことを書いて、年末になって「やっぱり全然仕上がりませんでしたぁ」なんてのが一番かっこ悪いんだけど・・・