「天下騒乱 鍵屋ノ辻」〜智謀・深謀、そして、覚悟〜

年末年始読みふけっていたのが、池宮彰一郎さんの「天下騒乱 鍵屋の辻」。池宮さんの本は、忠臣蔵を、赤穂浪人と吉良・上杉の「智謀戦」という戦記ものとして再構築した「四十七人の刺客」を読んでいて、その観点の新鮮さと共に、豊かな日本語表現に魅了されました。年末年始、心新たに、しっかり筋の通った日本語を読んでみたい、という気持ちで、選書。期待に違わず、重量級の「戦記文学」を楽しむ。

鍵屋ノ辻の決闘といえば、柳生新陰流の達人、荒木又右衛門が大活躍する、というストーリを、まず期待する。実際、「天下騒乱」でも、荒木又右衛門の超人的な知力と胆力、その剣の冴えが、絶対的に劣勢に置かれた自陣を勝利に導いていく。ただ、これを、単なる一人の武芸者の英雄譚にまとめていない所が、池宮流。鍵屋ノ辻の決闘という出来事自体を、幕府を中心とした外様大名と旗本衆の代理戦争と捉え、その双方の謀略と智略の息詰まる駆け引きをドキュメンタリータッチで描写していく。これぞまさに「戦記文学」。

四十七人の刺客」でも思ったのですが、「天下騒乱」においても、幕閣と旗本、外様大名たちの間の「駆け引き」が、物語の主軸を占めます。池宮さんの視点は、ひとつの事件をその発生した時点で捉えるのではなくて、そこに至る長い時間の流れと、そこに至る様々な人々の思惑や策謀の糸の絡み合いとして捉える。「天下騒乱」では、その策謀の中心を占めるのが、幕閣の中枢、土井利勝。そういう視点に立った時、「戦記文学」が、高度な「政治小説」に変貌していくのが面白い。

幕府の基礎が未だ脆弱である家光の治世。脆弱であるからこそ、外様を優遇しつつ疲弊させ、旗本を貧窮させつつ高い地位を与え、その双方を天秤にかけながら、戦国の戦時経済を、平時の消費経済に緩やかに移行させていこうとする。その絶妙な綱渡りの中でこぼれ落ちた外様雄藩の不祥事に、不満を募らせる旗本たちが群がり、当事者たちを麻の如くに縺れ合った思惑の渦の中に絡めとっていく。

第二次大戦でもそうですけど、全ての戦いの裏には、当事者だけじゃなく、その裏にいる多くの利害関係者の様々な智略・謀略・戦略が渦巻くもの。おそらくは全ての戦争小説は、そのまま政治小説なんだろうなぁ、と思いながら読みました。その戦略・智略が行き当たりばったりの感覚的なものであればあるほど、その戦争の愚劣さが際立つ。「天下騒乱」においても、己の不満や私欲で短慮な即断を下す愚かさが、どれほど愚劣な結果を生むか、という描写が何度か現れます。その中で、池宮さんが、一種の尊敬と共に描き出すのが、「武士としての義」を立てるための智謀であり、百年の計を案じながら図られる深謀であり、そのために、「悪を為す」覚悟。

「事に終始あり」という言葉が、全体の構成をきりりと締めていて、実に端整な時代小説を読んだ気分になりました。池宮さんの作品、これからも追いかけていこうと思います。