お客様によって磨かれるもの

あけましておめでとうございます。今年も例によって、くだらない独り言を綴ってまいります。ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

さて、この年末年始も、例によって岩手の花巻温泉でのんびり過ごしておりました。今年ちょっと違ったことといえば、娘の着物の着付のこと。毎年、年始には、女房の実家の両親ともども、全員が着物を着て、ホテルの玄関の新年飾りの前で家族写真を撮る、というのが、我が家の恒例行事。女房も、女房の母親も、年季の入った着物道楽なので、自分の着物は自分で着付けられるんです。というわけで、毎年1月1日には、部屋で大騒ぎしながらお互いの着物を着付けている。

娘も毎年、女房が着付けられるシンプルなお着物を着ているんですが、今年は、七五三に着た立派なお着物を着ようよ、という話になった。女房の実家の両親が、娘の七五三に上京することができなかったので、着物姿を見たい、と言い出したんですね。「この着物の着付けは、我々ではちょっと無理だよ」ということになり、ホテルにお願いして、ホテル近辺の美容院で着付けてもらうことになりました。

1日、じゃあ、美容院にでかけようか、と娘に言うと、娘がべそをかきはじめる。秋の七五三で、都内のデパートで着付けてもらった時、ものすごくきつく帯を締め付けられて、「あくびも出来なかったんだよぉ」と泣きべそをかく。じゃあ、お着物は着たくないの?と聞くと、着物は着たい、でも、「息苦しいのがいやだ」という。着物を着るのはそれなりにきついことだから、我慢するしかないけど、「なるべく楽に着付けてもらうように、お願いするから」となだめて、美容院へ。

花巻温泉のホテル街を出て、少し歩いたところにある美容院に行く。店に着くと、着物姿のお姉さんが、お店のおばさまと談笑している。娘を見て、「うちの子もこれくらいの頃が一番かわいかったわねぇ」なんて言いながら、「じゃ、失礼します」と店の外へ。

「今の方、芸者さんですよ」とお店の方が教えてくれる。「ホテルのロビーの振袖の従業員さんたちとか、あの芸者さんたちとか、みんなおばさんが着付けてあげたのよ」とおっしゃる。「秋に着付けてもらった時、相当息苦しくなっちゃったらしいので、楽になるようにお願いできますか?」と聞くと、にっこり、「分かりました」と一言。

脇で拝見していたのですが、髪の結い上げから、華やかな帯の締め方、娘のお化粧に至るまで、水際立った手際のよさ。娘も終始ご機嫌で、「あくびできる?」と聞くと、にっこりあくびして見せました。楽に着せられているだけじゃなく、髪型も飾りも綺麗で、帯の細工も見事。午後一番に着付けてもらって、夕方くらいまでずっと着物姿だったのですが、全然着崩れしないし、娘も楽そうに過ごしている。女房が後で着物を脱がせてみて、「都内で着付けてもらった時は、帯紐を何本も使ってたのに、帯紐の数が全然少ない」と驚愕。二人して、「見事なものだねぇ」と言い合う。

たぶん、温泉旅館街の美容院という場所柄、着物の着付けが日常的に行われているんだと思います。だから技術が劣化しない。しかも、お客様の注文がすごく厳しいのだろうと想像。着物を着る芸者さんも、長年着物を着慣れてらっしゃるから、「こう着付けてほしい」という要求条件が高い。着付の学校で習ってきたことをそのままにやっても、「それじゃ役に立たないのよ」と一刀両断される世界。しかも、着付けられた着物は、お座敷のお客様の視線にもさらされる。そういういくつもの厳しい視線をくぐり抜け、「この前の着付け、全然なってなかったわね!」という罵声を浴びせられ続けて、鍛え抜かれた技。

七五三や成人式といったイベントだけに対応している都内の百貨店の美容室で、着付教室で習ったことを、「着物ってのはこういうものだ」と機械的にこなす若いスタッフ。その未熟な技術に対して、客の子供がモノ言えるわけもなく、親だって、それを未熟と見抜く目を持っていない。そういう環境では、技術が磨かれるはずもない。

これって、全ての技術、全ての表現に通じることのような気がします。舞台のパフォーマンスを磨くのは、観客の厳しい視線。よく、「友達や知り合いのお客様の評価は甘くなるから、鵜呑みにしちゃだめ」と言うのですが、結局、そういう「甘い」お客様の声に満足してしまうと、全然前に進めないんですよね。見る目を持ち、聞く耳を持つ見知らぬ観客の評言ほど、怖いものもないけれど、そういう声に耳を傾けていかないと、向上もない。

年始にあたって、一本筋の通った職人の技を見せられたような、いい気分になりました。自分の表現を、どれだけ客観的に、どれだけ厳しく見つめ続けることができるか。今年の私の、一つの大きな課題です。