週末、いろいろとインプットがあったので、ぼちぼちと書いていきます。
・幸田文「きもの」を読了。やっぱりものすごくいい。
・二期会オペラ公演「コジ・ファン・トゥッテ」を見る。いつ見ても幸福になるオペラ。
・大久保混声合唱団「その心の響き」演奏会をステマネとしてお手伝い。演奏会はとても感動的だったけど、ステマネとしては反省の多い演奏会だった・・・
今日は、二期会の「コジ」の話を。11日(土)の日生劇場の公演を見に行きました。
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公演監督:大島 幾雄
舞台監督:大仁田雅彦
装置:ニール・パテル
衣裳:前田文子
照明:中川隆一
演出助手:高岸未朝
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:二期会合唱団
フィオルディリージ 林 正子
ドラベッラ 山下 牧子
フェランド 鈴木 准
グリエルモ 宮本 益光
デスピーナ 鵜木 絵里
ドン・アルフォンソ 加賀 清孝
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…という布陣でした。
以前にも、「コジ・ファン・トゥッテ」というオペラは本当に大好きなんだ、という話をこの日記に書いたと思います。モーツァルトの、人間に対する絶望と愛情を全部ひっくるめて笑い飛ばしちゃおうぜ!という、恐ろしくも楽しく、冷徹だけど温かな、矛盾に満ちた物語。これを、前回、同じ二期会公演の「ドン・ジョヴァンニ」で強烈なパンチ力を見せてくれた宮本亜門さんが演出されるというので、以前から女房ともども、「これは絶対行かねば!」と思っていたのです。
宮本さんの演出は、ある意味極めてオーソドックスな作り、と見ました。劇中劇のように全体を仕立てたり、もともとにはないアルフォンソの友人たちがうろうろしている、と、いわゆる伝統的な演出とは違う斬新さはありますけど、これはあくまで、原作自体の持っていた、「狂言回しとしてのアルフォンソ」という基本構造を整理して見せたもの。つまりは、「人間とは所詮こんなものさ」と語るアルフォンソの作り出した物語として語られる物語として再構築した時に、「コジ・ファン・トゥッテ」という物語が、「アルフォンソの物語の中の人間」「それを語っているアルフォンソを含めた舞台上の登場人物」「その舞台を見守っているわれわれ観客」という、三重の入れ子構造を持っていることを、はっきりと観客に提示してみせる。こういう「コジ」の持つ多重構造を明確に見せてくれた、という意味で、宮本さん、やっぱりタダモノじゃないと思います。
舞台上には、劇中劇の登場人物と語り手たちという二重構造が存在しているのですが、その二つの構造の間を役者が行ったりきたりすることで物語を進行させていくおかげで、ものすごくテンポ感がいい。さぁこうなりました、さて次は、という感じで、どんどんと物語が進行していく。語り手たちであるアルフォンソの取り巻きたちは、時には完全な黒子として振る舞い、そして時には登場人物にはっきりと絡む。その振る舞いのおかげで、観客は舞台上の二重構造を常に意識しつつ、飽きることもなくどんどんと次の章へと興味をつないでいくことができる。アルフォンソとその取り巻きの士官たち、という「語り手」グループには、どこかホモセクシャル的な倒錯感が漂っていて、それが、劇中舞台の登場人物たちを冷ややかに眺めている彼らの視点とあいまって、劇中舞台の登場人物たちと彼らを明確に「別の人種」と切り離しており、それが、舞台上の二重構造を明確にしている感じもしました。
歌い手さんたちも、舞台上での自分の役割をすごく楽しんでらっしゃるような感じで、どの歌い手さんも本当に素敵でした。フィオルディリージの林さんは低音から高音まで、まろやかで柔らかな響きが変わらず、立ち居振る舞いの美しさ、激しさも素晴らしい。ドラヴェッラの山下さんはもう本当にコケットで艶っぽく、初手からいたずらっぽいドラヴェッラそのもの、という感じ。フェランドの鈴木さんの輝かしいけど決して細くない高音の響き、グリエルモの宮本さんの演技、歌、容姿と三拍子そろった役者ぶりも見事。デスピーナの鵜木さんは心底この役を楽しんでらっしゃる感じで、実に遊び心溢れる演技と存在感。アルフォンソの加賀さんは貫禄の演技。あれだけ舞台上に出ずっぱりで、あそこまで安定した歌唱が保てるってのは、本当にすごいなぁ。
音楽のことはよく分からんのですが、やっぱり難しいオペラなのかなぁ、という感じがしました。この前に見た「コジ」が、新国立劇場で絶賛された「コジ」だったので、比較しちゃった、というところはあるのかもしれないけどね。新国立の「コジ」は、とにかくアンサンブルが完璧で、どこをとっても安心して聞けたのだけど、今回の「コジ」は、歌手同士のアンサンブル、オケとのアンサンブルで、時々ひやっとする感じがありました。たぶん、歌い手さんたちにとっても、ものすごくチャレンジングな演目なんだと思います。個人技だけじゃどうにもならない部分だったりするしねぇ。
一つだけ、演出上で、「ちょっと私の思っているのと違うかも」と思ったのは、デスピーナの扱い。鵜木さんのデスピーナは、時々、「男なんて・・・」というつらそうな表情を見せる瞬間があり、それがとても印象的だった。宮本さんの解釈なのか、鵜木さんの解釈なのか、デスピーナという女は、昔男のことですごくしんどい目にあって、それ以来、恋愛に対して斜に構えている・・・という設定になっていたと思います。
確かに、そういう解釈を取ると、日本人的には、デスピーナに対してとても同情も湧くし、親近感も持てる。ある意味とても分かりやすいデスピーナ。でもそのデスピーナの一種の「苦悩」は、物語の最後に至るまで解決されない。となると、観客にとってはちょっと消化不良の感じも残ってしまうんですね。
私としては、デスピーナという女は、確かに男に泣かされたりもしているだろうし、燃え上がる恋愛も経験しているかもしれないけど、でもそういう経験も全部ひっくるめて、「しょせんこんなもんだよねぇ」と笑い飛ばせる強さを持った女・・・という気がしています。つまるところは、この作品を書いているモーツァルトそのもののような。
そう考えていくと、宮本さんが、デスピーナをそういう「人間的」、あるいは「日本人的」な女性として造形したのは、ひょっとして、語り手=アルフォンソ=モーツァルト、という構造を明確にしようとしたためかな、という気もします。語り手はアルフォンソだけで十分なのであって、デスピーナも、その語り手の手のひらで踊っている登場人物にすぎない。であれば、デスピーナが、モーツァルト的な視点を確保しない方がいい。とはいえ、デスピーナの存在自体が、語り手であるアルフォンソ側にかなり近く、実際、劇中舞台の外に設置されたアルフォンソの席に、デスピーナが時々座ってみたり、そもそもの登場の時点から、劇中舞台の外である地下から、ふたを開けて舞台に入ってくる、という場面がある。つまり、デスピーナは、劇中舞台の登場人物であると同時に、語り手側の人物でもある。つまりは、舞台の二重構造を破壊するトリックスターとして存在している。
「コジ・ファン・トゥッテ」という悪魔的な作品自体のもつ、神話的な構造のような所まで提示して見せてくれた、知的でスリリングな舞台でした。宮本亜門さん、出演者の皆様、スタッフの皆様、とっても素敵な時間を、ありがとうございました。