勝ちっぷりのいい戦争なんてない

戦後60年、ということで、色んなところで、太平洋戦争に関する企画が生まれているようですね。太平洋戦争の大義、とか、加害者としての日本、被害者としての日本、とか、色んな議論がある。色んな議論のある中で、歴史認識について何かここで述べる気はありません。ただ、一つ心に残った言葉があったので、そのことについてちょっと書いてみたい。それは、「勝ちっぷりのいい戦争」という言葉です。

戦後、GHQの自己本位な政策に振り回された吉田茂が、「戦争というのは、勝ちっぷりがいいに越したことはないけれど、負けっぷりもよくなきゃいかん」と、ひたすら耐え忍びながら戦後の独立を勝ち取っていった、という逸話を、ある本の中で読みました。敗戦・占領の恥辱に耐えながら、日本民族の独立を勝ち取るために臥薪嘗胆した気骨の政治家らしい、味のある言葉。でも、そう思った時に、ふと考えた。「アメリカって、勝ちっぷりのいい国かしら?」

太平洋戦争に関して、日本人の多くは、悲惨な死を遂げた同胞への哀悼の言葉を口にします。加害者としての日本人の行為に対する反省の言葉よりも前に、被害者としての自分を前面に出した上で、「二度と戦争を起こさない」と誓う。それは何よりも、太平洋戦争において、日本人が壮絶な焦土作戦により、大量の民間人の犠牲者を出した、という事実に裏打ちされた行為です。人間、殴られた記憶は過大に印象されるし、殴った記憶は過少に印象される。駒大苫小牧の野球部長が、「10回くらいは殴ったかも」といい、殴られた方は「3・40回殴られた」という。一人の人間を3・40回殴り続ける、なんてことが現実問題としてできるのか、という感想を持った人も多いと思いますが、そこで気付きませんか?ほとんど同じ議論が、南京大虐殺の事実認定において行われていること。相手は30万人、といい、こちらは、そんなに多くない、という。南京の当時の人口から考えて、30万人なんて非現実的だ、という。ほら。同じ議論でしょ?

(ちなみに、駒大苫小牧の件について。私は、今回のようなことが起こると、ここぞとばかりに学校側を「事実隠蔽」だの「不誠実」だのとバッシングする、マスコミのステレオタイプな報道姿勢に嫌気がさすので、バッシングされている野球部長の方に、どちらかというと同情的です。殴られた生徒の父親のコメント、というのも、クレーマーのコメントみたいで不愉快である。高野連も、マスコミに煽られてバカなことやらなきゃいいけど。犠牲になるのは必死に真面目にやった野球部の他の部員たちだよ。)

南京大虐殺があったかなかったか、ということをここで議論する気はなくて、要するに、戦争において「加害者」としての自分を反省することはすごく難しいし、「被害者」としての自分を嘆くことはすごく易しいことだ、ということが言いたいのです。そしてさらに言えば、これだけ日本人が、太平洋戦争に関して、加害者意識よりも被害者意識を持つに至った背景には、アメリカという国が、極めて「戦争における勝ちっぷりが悪い」国である、ということがある気がするんです。

米国という国ほど、他国人を虐殺した国はない、というのはよく言われること。太平洋戦争以降、米国が関わった戦争は、全て、大量の非戦闘員の犠牲者と、大きな憎しみの連鎖を産み、戦争の勝敗に関わらず、米国に対する憎しみをかき立ててきました。戦争には強いし、大抵は勝つんだけど、戦争自体がヘタなんですね。とにかく「勝ちっぷりが悪い」。ボクシングで、相手が完全にダウンして気絶しているのに、さらにボコボコに殴りつけた上に、両手両足を切り取ってやっと安心するような、極めてヒステリックな攻撃の仕方をする。これじゃ負けた方はたまらん。日本における奇妙な被害者意識は、戦後日本の繁栄を支えてくれた同盟国である米国に対する同胞感が、そういう精神異常的な加害者である米国への憎しみを歪めた結果としての、戦後政治の産み落とした一種の奇形児である、とさえ思います。

ただ、米国、ということで限定してしまうと米国人にはかわいそうで、太平洋戦争以降の大量殺戮兵器を前提とした戦争において、非戦闘員を巻き込まない形での、「勝ちっぷりのいいきれいな戦争」なんてのはありえなくなってしまった。戦争を行うことは、必ず非戦闘員の犠牲を伴う。戦闘員だけがぶつかりあい、勝敗が決する戦争なんかありえない。それは必ず、憎しみの連鎖を生む。現代において、「勝ちっぷりのいい戦争」なんかありえないんです。

フレドリック・ブラウンの短編で、異星人の大宇宙艦隊との戦争を目の前に、ある巨大な意志が、双方の戦士から1名ずつを選び、仮想空間で戦わせ、戦争の勝敗を決する、という短編があります。双方がそのままぶつかれば多大な犠牲を生むだけである。極めて効率的な戦争。

中世の戦争では、傭兵による代理戦争が普通でした。どれだけ優秀な傭兵隊長を雇えるか、そしてその隊長の作戦がどれだけ図に当たるか、によって、戦争の勝敗は決した。結果、殺戮はほどほどのところで収まって、ある程度戦ったら、「まぁこのあたりで勝敗は決まったよね」と双方でお茶でもするような、実に優雅な戦争だったそうです。

こういう戦争であれば、勝ちっぷりのいい戦争はありうるかもしれないけど、現代社会において、勝ちっぷりのいい戦争なんかありえない。日本人は米国の落とした原爆や、沖縄戦東京大空襲の悲劇を決して忘れないし、忘れてはいけない。同じように、日本人がアジアでやった侵略行為についても、忘れてはいけない。つまりは、戦争というのは国家間紛争を解決する手段として、決して有効な手段でもなく、効率的な手段でもない、ということ。憎しみの連鎖を産み、その連鎖を断ち切るためにさらに大きなコストがかかる。そういう最も愚かな解決方法でしかないのだ、ということを、決して忘れてはいけないんでしょうね。