昨夜、女房と話をしていて、自意識過剰、という話が出てきました。東大出身者を夫に持つ、お茶大出身の女性が、「自分の夫や自分の学歴を、身近な人に話す時、どうも躊躇する」という話が、ネットに出ていたそうです。自意識過剰だよねぇ、という話をしながらも、我が身を振り返れば、思い当たる節もないわけじゃない。
かく言う私の出身大学は東大で、出身高校は灘高校です。あらあら、絵に描いたようなエリートコースじゃないですか。そんな男が、日本の将来背負う気概も持たずに、歌や芝居に呆けていていいのかい。まぁいいんじゃないの。人には向き不向きってものがあるのだよ。日本なんて背負えないからね。重いから。
でもまあ、最近はそうでもないですけど、高校生の時とかは、自分の高校名を言う時に、普通に「灘高校」とは言わずに、「あの・・・神戸の・・・灘高校です」なんて、言ってましたね。この「神戸の」という枕詞、なぜか他の灘高生も使ってました。まっすぐ「灘高です」と言えない。なぜだ。
こういう自意識過剰、というのは、誰にでもあることだと思います。おそらくは、東大生や灘高生が陥ってしまう自意識過剰、というのは、周囲の目や、周囲の反応からも、ある程度醸成されてきたものなんだろうな、と思うんです。女房が見たという、前述のネットの発言でも、同じような反応があったそうな。「僕は東大出です」というと、周囲の人々が何かしら、「他の人とは違う人」という目で見たり、反応したりする。そういう反応はやっぱり不可避。菊川怜さんとか、高田真由子さんとか、未だに「東大卒」である、ということが一つのブランドになっている。ブランドというのは強力なものです。同じ鉛筆にキティちゃんの絵が描いてあるだけで値段が3倍以上になるんだからねぇ。鉛筆に変わりはないのにねぇ。
これだけ世の中が、学歴不問の世の中になり、ライブドアの堀江社長が、「東大素直に出て官僚になってるやつなんてクズだ」と喚いてみても、未だに「東大」がブランドであり続けるってのは何なんでしょうねぇ。だからといって、「東大生なんだから」と、必死になっていきがっているのもヘン。「東大生ですみません」と卑屈になるのもヘン。結局は、周囲の反応や視線を気にしているから、そういう自意識過剰のわなにはまっていく。そういう自意識過剰のわなの中で、今ひとつ周囲から浮いている、「モト東大生」を見ることが、割とよくあります。自分だってそうかもしれないなぁ。
周囲の反応や、視線が気にならない、というか、どうでもよくなってくると、「東大生であること」というのは、「自分」という総体の一つの要素に過ぎなくなってきて、その要素に過剰反応する周囲の反応もひっくるめて、「自分」なんだ、と達観できるんでしょうけどね。
でも、人目ってのはやっぱり気になるんだよね。なんでこんなことをつらつら書いているか、というと、週末に見た、「東京ワルツ」という番組が、「外国人から見た東京」「外国人から見た日本」という視点で制作されているのがミョーに面白かったから。ヨーヨー・マ(チェロ)マーク・オコナー(フィドル)エドガー・メイヤー(ベース)のトリオによる、サントリーホールでのコンサートを軸に、そのコンサートに至る舞台裏をドキュメントしたドキュメンタリー。そこに描かれた東京・日本、というのが、ものすごくステレオタイプ化された「日本・東京」像で、結構笑ってしまったんです。
「物価が高い」「疲れてるのに襲ってくるTVの取材クルー」「ごちゃごちゃした小さい家が密集する狭い通り」「派手なネオン街」「仏教寺院と法要のシーン」「お祭りのシーン」・・・おいおい、東京ってそれだけかい。それだけかもしれんけどさ。もう少し、なんかあるだろうが。ないのかなぁ。
外国人の見た日本を見て、「日本を理解していない」というのも、自意識過剰の一環なのかもしれませんね。所詮他人には自分は分かってもらえない、それだけ「自分」というのは、簡単に理解できないほどに複雑な、「大層なものなんだよ」という自意識過剰。所詮わかってもらえるもんか、と開き直ってみても、他人がいなければ自分もないんだからねぇ。自分の思う自分像も、他人が見ている自分像も、全部ひっくるめて、自分なんだと観念するしかない。いくら隣国の人が石だのペットボトルだの投げつけてこようがね。
今日はかなり支離滅裂になっちゃいました。すみません。自分と他人。難しいテーマだなぁ。