木下大サーカス〜パフォーマンスの究極の形〜

3連休、ガレリア座も何もない休日を、親子そろって思い切り堪能いたしました。3連休のインプットは以下のようなものでした。

−土曜日、家族で、木下大サーカスを見にいく。
−日曜日、なあんにもしない。
−月曜日、新国立劇場に、「コジ・ファン・トゥッテ」を見にいく。

今日は、木下大サーカスの話をしましょう。

調布市制50周年、ということで、木下大サーカス調布市に来ているんです。味の素スタジアムのすぐ脇の広大な空き地に真っ赤なテントを張って、5月末まで興行するそうな。娘の幼稚園で、割引券を配っていたので、家族そろって見に行きました。

サーカスを見る、というのは、生まれて初めての経験だったので、すごく面白かったです。ある意味、肉体表現の究極の形、究極の技を競う、という感じですよね。技、であり、芸、である。決してアートにはならない。でも、アートの根源の形である。パフォーマンスの根源の形である。

一つ一つの出し物がすごく短いので、子供が見ていても全然飽きない。この短さ、というのは、肉体的な集中力の限界、という技術的な問題と、飽きさせないための工夫、という問題と、さらには、パフォーマンス自体のアピール力・パワーを強くするための工夫なのかなぁ、という気がしました。一瞬芸の蓄積、というか。

舞台表現とかをやっているとき、舞台芸術、とか、芸術活動、といわれるのが、どうも嫌なんです。合唱とか、オペラをやってます、というと、「芸術的なご趣味をお持ちですね」なんていわれる。「芸術」という言葉には、なんだかヘンな色がついていて嫌なんですね。下々の者とはちょっと違う、ハイソで高尚な趣味なんだぞ、みたいな。

以前、この日記で、桐朋学園の「子供のための音楽教室」が主催したコンサートが、あまりにアカデミックでエンターテイメントとして全然つまらなかった、という話を書いたことがありました。サーカス、というのは、とにかくエンターテイメントであり、アカデミズムのかけらもありません。でも、舞台に立ち、お客様の前で何かをする、という行為というのは、本来アカデミックなものじゃないはず。エンターテイメントであるべき。芸能であるべきで、芸術というのとはちょっと違うはず。

どちらの極端に流れてもよくない気はするんですが、自分が舞台表現という場に携わる時に、決して失ってはいけない要素、のようなものが、これでもかとばかりに盛り込まれた表現のような気がしました。お客様を楽しませること。そのために技術を磨くこと。そのために決して乱してはならない段取り。おろそかにしてはいけない手順。そういうものが100年以上蓄積されている。ピエロのショートコントの間にくみ上げられる空中ブランコ用のネット。その組み立て手順などは、完璧に段取りを踏みながら、人の命を支える、という緊張感に満ちていました。7段積みの椅子の上でバランスを取る、という芸で、椅子の受け渡しや、積み上げるタイミング、段取りも、一つとして怠ってはいけない手順の積み重ねです。そういった、「こうであらねばならない」「これ以外にありえない」という動き、段取りの集積。その純粋さ。繰り広げられる究極の肉体表現を見ながら、そういう細かい努力と工夫の蓄積に、本当に頭が下がりました。

娘は、早速、スタースティックという、きらきらとライトが光るお星様の形の杖を買ってもらって大喜び。枕元にまで持ち込んで、ポーズを取っていました。それにしても、あのサーカスのパフォーマーたちっていうのは、どういう出自の方々なんだろう。元体操選手だったりするのかなぁ。誰一人として、只者じゃない感じだったなぁ。