勘三郎さんに教えてもらったこと

今朝の台所から、女房の「ぎゃあ」という悲鳴が聞こえてきたと思ったら、中村勘三郎さんの逝去の報がTVで流れてきたのでした。肺疾患で復帰が延期された、というニュースに、不安が募りながらも、新装なった歌舞伎座こけら落としで、きっと元気な姿が見られる、と思い込んでいたのに、残念で残念でなりません。57歳ですよ。あと30年は舞台で頑張ってほしかったのに。

生まれて初めて、「歌舞伎って面白いかも」と思ったのは、コクーン歌舞伎で見た「東海道四谷怪談」でした。そういう意味では、私の歌舞伎経験というのは、中村勘三郎が仕掛けた罠にそのままハマった、と言えなくもない。コクーン歌舞伎で、歌舞伎の面白さを垣間見た後、歌舞伎大好きの女房をもらってから、何回か通った歌舞伎座の舞台に、勘三郎さん(当時はまだ勘九郎さん)はゆるぎない存在感でそこにいました。舞台に立った時、間違いなく観客を楽しませてくれる、そんな安心感と、こちらの予想を必ず裏切るエンターテイメントを見せてくれる、そんな役者さんは滅多にいない。勘三郎さんは間違いなく、その一人でした。

勘三郎さんのことを、「歌舞伎界に新風を吹き込んだ」というキャッチフレーズで語っている報道が多いですが、それは根本的に間違った認識だと思います。勘三郎さんは、歌舞伎という古典芸能を引っ提げて現代演劇界に殴り込みをかけた革命児だ、というのが正しい評価なのじゃないか、と思う。彼の歌舞伎の舞台は、古典歌舞伎の型を決して崩さず、その伝統にどこまでも忠実だった、という印象で、かつての歌舞伎の持っていたデーモニッシュなまでの祝祭性・娯楽性を復活させることで、既存の演劇界に、「歌舞伎ってこんなに面白いんだ」ということを知らしめた。現代の演劇の様々な場面で、歌舞伎の表現が取り入れられるようになったのは、彼が復活させた歌舞伎本来の荒々しい猥雑さが、現代演劇にとっても革命的な刺激になったからだと思います。

勘三郎さんが教えてくれたのは、歌舞伎の面白さだけじゃない。歌舞伎というのは「家の芸」「血の芸」なのだ、というのを教えてくれたのも勘三郎さん。家の芸である歌舞伎を守るために、勘三郎さんの家族が見せる振る舞いや行動そのものが、200年間受け継がれてきた伝統の力をまざまざと見せつけてくれたように思います。現・勘九郎さんと七之助さん兄弟が、記者会見で見せた笑顔と、舞台口上のエピソードを聞くと、歌舞伎という舞台表現の底知れないパワーを感じてしまう。彼らの後ろに何代となく連なる家系の道筋が見えるような。

もう一つ、忘れられない映像があります。勘三郎さんと、彼の大親友の一人である六平直政さんがTVで対談していたのを見た時のこと。細かい話は忘れたのだけど、とにかく二人で楽しそうに話をしている。真剣な舞台議論をやっている、というよりも、他愛無い酒の席の失敗談なんかが滅法面白い。毎朝出かけるときには奥さんにキスして出かける、という勘三郎さんに、「俺も一回キスして送り出してもらった」と六平さんが切りかえして、「あれは妬けたね」なんて勘三郎さんが笑って返す。そんなバカバカしいお話を見ながら、突然、「そうか、この人の前では、きっと誰もがこんなに心を開いてしまうんだ」と思った。京都のお茶屋遊びを含めて、本当の遊びを知っていた粋人の勘三郎さんだからこそ、どんな人との会話も楽しんでしまう。そうやって勘三郎さんが楽しそうにするから、一緒にいる人もどんどん心楽しくなる。そういう力が、勘三郎さんの周りに人を集め、平成中村座コクーン歌舞伎といった巨大なプロジェクトをプロデュースする力になったんだろうな、と思います。

女房は、昔、橋之助の息子たちが初舞台を踏んだ時の勘三郎さんの姿が忘れられない、と言います。お舅さんにあたる中村芝翫さんが、一世一代の娘道成寺を踊り、勘三郎さんは橋之助の息子たちも交えた小坊主たちの先頭に立って、踊る芝翫さんの後ろに控えていました。その、芝翫さんの一世一代の舞踏を見つめる勘三郎さんの目は、お舅さんの、まさに指先一ミリの動きすら見逃すまいとする、戦慄さえ感じるほどの真剣なまなざしだったと言います。

伝統の持つ力を現代に甦らせた巨星が一つ墜ちました。心からご冥福をお祈りしたいと思います。