舞台、特に歌をやっていると、自分のやっている舞台表現というのが、スポーツアスリートのパフォーマンスに似ている、というのを実感することが多いし、この日記にも何度もそんなことを書いています。その文脈で、先日女房が、「ほぼ日刊イトイ新聞」での、糸井重里さんと為末大さんの対談が面白い、と言ってくる。為末さんは、自分の関わっている陸上競技について、たくさんの言葉を費やすことで有名な方だそうなのだけど、対談の中で、彼がこんなことを言っている。(以下、引用)
ぼくら陸上の選手にとっては、
「言える」ということが、
なんというか、ひとつ、大きなことなんです。
つまり、走ったり跳んだりすることって、
体のことなんで、選手本人も、
ぜんぶを「言える」わけじゃないんです。
言えないんだけど、でも「できる」とか、
意識してないんだけどできちゃう、
そういうことがけっこうあったりするんです。
そういうときに、「言えた」と同時に、
意識しないでやってたことが、
意識的に「できる」ようになることがあって。(引用ここまで)
「走ったり跳んだりする」というのを、「歌う」と言い換えると、そのまま我々歌い手に通じる言葉だと思う。歌うための体が、子供の頃から自然と出来上がっている美空ひばりみたいな人もいるけれど、たいていの人は、何もないところから、「歌うための体」を作り上げていく。その作り上げていくプロセスで、色んな「言葉」に出会う。その「言葉」が、体の状態をいい方向に持っていくこともあれば、かえって混乱させることもある。いい「言葉」に出会うことで、突然技術がジャンプアップするのもよくあること。
「おなかから声を出せ」「丹田で支えろ」「のどに力を入れるな」「あくびしているみたいに」「頬骨を上げて」「目を開いて」「口を大きく開けて」・・・歌い手が一度は必ず聞いたことのある言葉たち。よく使われるのだけど、中には変な誤解を招く言葉もある。昔よく言われたのが、「のどを使うな」という言葉(最近はあまり使わないみたいだけど)。この言葉に呪われた人が、響きがのどの奥に引っ込んだ「Digした声」から卒業できない、なんてのもよくある話でした。声はのどにある声帯が震えて出るので、のどを使わないで歌うことはできないんだけど、のどの筋肉に力を入れないように、というのを「のどを使うな」と言い換えたせいで、少しずれたイメージが固着しちゃったケース。
同じように、外国語歌唱をやる際に、「外国人は日本人に比べて口腔内が広いから、もっと口の中を縦に開けて」と言われることが多いと思います。でもこれもケースバイケースで、逆に外国人に指導されると、「もっと横に開いて、前で母音をさばきなさい」と言われることもある。縦を意識しすぎてその母音本来の響きが出てこない。「縦」という言葉の呪い。
逆に、言葉によって明確化するものもたくさんある。最近、私が声楽を習っている立花敏弘先生は、ほとんど解剖学の授業じゃないか、と思うほど、筋肉や骨の構造から体のコントロールの仕方を教えてくださいます。先日、「Singさんはイの母音の時に、舌根が奥にいって口腔を狭くしてますね」と言われる。「そうすると逃げ道を失った息が鼻に抜けて鼻声のイになっちゃう。舌先が歯の裏から極力離れないように意識して、口腔を広く保つように」と言われると、確かに状況が改善する。アスリートっぽいなぁ、と思った。
合唱指導や舞台演出、という場面でも、この「言葉」というのが非常に役に立ったり、逆に厄介だったりします。指導者が表現者の体の中に手を突っ込んでかき回すことができない以上、表現者の表現を変える「言葉」がとても大事になる。麗鳴の指導をされている中館伸一先生は、下手な歌を真似するのが非常に上手な方で、「こんな風に聞こえているからこう聞こえるように直して」と実際に歌ってみせてくれる。女房に聞くと、あの故辻正行先生も、ヘタな歌い方を真似するのが恐ろしく上手だったんだそうな。「言葉」よりも「お手本」が説得力があるケース。
一番困るのが、「音程が悪いから直して」と言われること。私は音感が悪くて、録音を聞くと時々、自分は真正音痴じゃないか、と思うくらいに音程が悪いんだけど、歌っている最中は自分が出している音が正しい音なのかなかなか分からない。音程を意識しようとすると逆に体が固くなって声がしぼんだりもする。そういう時は、意外と「楽しい気分で」とか、「空を見上げるように」、みたいなイメージを表現する言葉で、音程や音色が改善したりすることもあります。
合唱も舞台表現ですから、色んな感情やメッセージ、ストーリを伝えないといけないのですけど、それを説明する言葉をたくさん費やしたからといって、表現が変わるとは限らない。それが肉体表現である歌の難しいところ。悲しいフレーズを歌うのに、悲しい言葉を並べればそれで表現が悲しくなるか、というと、一概にそうも言えない。非常に明るい突き抜けた声で歌われる悲しい歌が、聴衆の胸を激しく打ったりする。
12日の日曜日、東京都の合唱コンクールに麗鳴として参加しました。演奏した三つの曲を練習していく過程で、自分の中で演奏曲に対するたくさんの「言葉」が蓄積されていく。歌った三曲が、竹下夢二(作曲は森田花央里さん、という若い方なのだけど)、高田三郎、佐藤賢太郎、という、大正・昭和・平成、という時の流れを示していて、それぞれの時代の空気がしっかり伝わってくる曲だな、とか、三曲に通じる「高み」というキーワードであったり、そんな色んな言葉が、自分の中で熟成されていく。
そういう「言語化」が頂点にきたのが、コンクール当日の朝からの練習で、九段下にある「俎橋(まないたばし)」の近くの会場での練習。そういえばここって、最近完結した「澪つくし料理帖」の舞台だったなー、と思った瞬間に、「澪つくし料理帖」のヒロイン二人の生き様と、演奏曲3曲のテーマが自分の中でシンクロしてしまって大変な状態になってしまった。野江の絶望、澪の追究、そして、新天地で次の高みを目指す二人の姿。
コンクール本番では、緊張のせいか、そうやって高まっていった自分の中の「言葉」と実際の表現があまりうまくシンクロできなくて、結果的には、賞なし、という残念な結果に終わってしまいました。でも、一つの作品を作り上げていくプロセスで、自分の中でそういう「言語」化をしていく作業を楽しめた、という意味では、いい経験だったな、と思います。
もう一つの問題は、そういう自分の中の「言葉」を、合唱団という集団の中に示すか、ということで、それをやっていいのは指揮者だけだ、と私は思う。技術的なアドバイスや音符の確認までは、団員にも許されることかもしれないけど、曲の解釈や世界観について語っていいのは指揮者だけ。自分の中の「言葉」を誰かと共有したいのなら、指揮者の先生に「こう思うんですけど」と言ってみて、それを先生が団員に伝えるかどうかは任せる。そうしないと、垂れ流されるたくさんの言語やイメージで、団員さんが混乱したり振り回されたりするし、何より、外から与えられたそういう言語に対して自分で考える力を失ってしまう。
舞台演出なんかでも同じような話があって、とにかく自分からアイデアを出しまくってお手本を示しまくって役者はそれを真似するだけ、という演出家もいれば、大枠の動きや決まり事を示すだけで、あとは役者が自分で考える、という舞台もある。自分も舞台演出をやることがありますが、こちらのイメージを一方的にぶつけるだけでは、演じる役者さんの腰が引ける感覚があって、うまく表現を前に引き出してあげるにはどうしたらいいのか、いつも悩みます。先日見た、「椿姫ができるまで」というドキュメンタリーでは、演出家のシヴァディエがマシンガンのように無数の言葉を演者にぶつけて、デセイがあきれながらもそれを上回るパフォーマンスを出してくる、というシーンがありました。さすがに議論好きな国の演出家と、それに負けない「歌う女優」。