「カーネーション」〜滅びていくものの矜持〜

朝ドラの「カーネーション」が好調、というのは前の日記にも書いたのだけど、先週の展開にはもう感服するしかない、という感じ。「ちりとてちん」と肩を並べられる朝ドラはもう出ないと思っていたのに、脚本・演出・役者・セット・衣装、どれをとっても一分の隙もないこんなすごいドラマにまた出会えるなんて。NJでも女房と娘が大層盛り上がっていて、娘は布を買い込んでワンピース作成にトライ中。最近の娘は自宅では着物(女房のお古)で過ごしていることが多いので、たすきがけで裁断に取っ組んでいる姿はすっかり糸子ちゃん状態です。
 

我が家の糸子ちゃん
 
ちりとてちん」ファンには、あのジュンちゃん役の宮嶋麻衣さんが準レギュラーで出演しているのもうれしいし、颯太君役の中村大輝さんがパッチ職人の山口さん役で出てきたのもうれしかった。ただ出ているだけじゃなくて、そういうチョイ役まで一人一人のキャラクターがものすごく立っていて本当に素晴らしい。背中だけの出演だった謡の最後のお弟子さんまでが味わい深いってのはなんなのだろう。

洋服、という、大正から昭和への時代の変化を象徴する素材を取り上げ、その洋服を身にまとうことによって、本来の自分に目覚めていく女性たちと、女性たちを本来の自分に目覚めさせることに生涯をささげる糸子、という主人公。そういう構造を持ったドラマの場合、去りゆく明治・大正という時代は、否定され、克服されるべき障害、として描かれるのが普通だと思うし、過去そういうドラマはたくさんあったと思います。でも、「カーネーション」の素晴らしいところは、明治・大正という時代が決して否定されることなく、郷愁と愛情を持って描かれているところ。その過去の日本を克服し、変革していく主人公自身が、決してその過去を否定しているわけではなく、深い愛情を持って接している。そういう過去の日本を象徴する存在として、小林薫演じるお父ちゃんがいる。商売下手で小心者で癇癪持ち、でも、このお父ちゃんがいてくれたからこそ、糸子ちゃんは、商売の基礎を体で学び、お父ちゃんを超えていこうとするエネルギーで前進していく。

私の兄が書いた白洲次郎の評伝の中で、彼が会社員をやっていた頃、船場あたりの取引先の社長さんに怒られて、スーツにお茶をぶっかけられてひどい目にあった、なんて話が書かれていました。ベショベショに汚れたスーツで会社を出ていこうとすると、玄関先に執事のおじさんがいて、まとまったお金を渡してくれる。「これでもっといいスーツを買え、と社長が申しております」と言われた、なんて話を、後年の白洲次郎は懐かしそうに話していたそうです。昔はこういう、うるさ型の頑固おやじがいっぱいいたもんだ、と。

今の年寄が若者におもねるようになり、若者が年寄に耳を貸さなくなって、この国はどんどん荒んできたような気がする。糸子ちゃんの前に、時には理不尽な暴力も振るいながら立ちはだかるお父ちゃんを見ていると、去りゆくものの矜持、というような言葉を思います。滅びゆくものであったとしても、自分が守るべきものを守り続ける、その毅然とした姿を後進の若者に見せなければいけないのじゃないか。そうして初めて、引き際の美しさ、去り際の見事さが際立つ。「これがお父ちゃんなりの手綱の締め方や」というおばあちゃんのセリフが胸を打つのも、不器用ながら一本筋の通っていた明治の男たちの気概を感じるから。

ところで、ガレリア座のOさんに先日、「小林薫のお父ちゃんを見ていると、Singさんを思い出してしょうがないのよー」と言われたのだけど、俺ってそんなに情けないのだろうか?