文章へのこだわり、言葉へのこだわり

米国で暮らし始めて思うのは、いたるところにあふれる文書の数々。仕事をしていても、大量の契約書に埋もれ、その契約書や覚書などをチェックするLegal部門が非常に重要。仕事だけじゃなく、車を買うにも、大量の文書に署名をしなければ前に進みません。その契約書を説明する文書も、図や表なんかぜんぜん入っていない、ひたすら文章が続くだけの分厚い文書です。契約社会、訴訟社会である、ということは事前に知識としては知っていたのだけど、文章の多さ、言語の多さには驚くし、米国人エリートたちの、文章を読み込む力、書く力のすごさには目を見張るものがあります。

特に驚いたのは、いろんな作業プロセスがすべて文章で記述されていること。日本で仕事をする時にしょっちゅう言われるのが、「もっと図や表を多用して、視覚的に分かりやすくしてくれ」というリクエスト。実際、日本でのプレゼンテーションスキルで重要視されるのは、模式図やチャートによる視覚化と、そのレイアウト方法だったり、いろんな手続きや因果関係を視覚的に分かりやすくしたフロー図だったりする。

でもこちらでは、そういう視覚的なアプローチが意外と受け入れられない。私が打ち合わせ中につらつらノートに図を書き始めると、隣で同じことをすごい勢いで文字で書き連ねている。私が図を使って説明しようとすると、「こっちに文字で書いたよ」と言われる。

逆に言えば、仕事のできるできないは、どれだけ文章が書けるか、ということで左右される。私の隣に座っているおじさんは、一日に大量の契約書を読みこなし、一つ一つの条文に大量のコメントを返している。一日にひとつの英文契約書を読むだけで四苦八苦していると、とてもついていけない。

どちらが優れている劣っている、という話ではなくて、文化の違いだとは思います。日本的な、視覚に訴える情報提供方法というのは、鳥獣戯画から江戸の黄表紙に至り、現在の漫画に通じている長い長い歴史を持ったもの。その源流を遡れば、漢字と仮名という、視覚と音と両方で情報を伝える言語を持っている、というところにまで行き着く、というのは、昔からよく言われる話。

そういう文化が、今日の漫画文化の隆盛を生んでいるわけだけど、一方で、視覚情報に頼るがあまりに、文章の読解力が極端に落ちているのが最近の日本人。仕事の文章に図や表が多用される、というのは、とりもなおさず、日本語という言語そのものの情報伝達力が落ちていることに他ならない。日本語力の低下=日本語を読み、書く力の低下。

一方で、米国のように、文章という表現手段に頼る文化、というのは、文章力のあるエリートたちと、読み書き能力の低い人たちとの間のギャップを生みます。大量の手順書や大量のマニュアルが、全て文章で書かれているのだけど、この文章を読み込む力のない人たちが運用しているので、しばしば混乱が生じる。

という混乱を身近に感じたのが、SSN事務局の窓口。そもそも米国の役所仕事の質の低さ、というのは聞いてはいたんですが、窓口の担当者の基本姿勢が、どうやって自分の仕事を減らすか=窓口に来た人のうち、ややこしい仕事は極力断って、自分がよく知っている簡単な仕事だけに限定するか、というポイントに絞られていることがまず問題。そしてそれ以外に大きいのが、実際の運用者が、運用マニュアルを読みこなせていないこと。

SSNというのは、Social Security Number社会保障番号)といって、米国での身分証明の基本になる番号です。いろんな手続きでこれが求められるので、この番号がないと、例えば会社からの給与振込みすらできません。そういう大事な番号なのだけど、窓口の担当者にとってみれば、海外から来た駐在員のSSN番号を受け付ける、なんていうのは、慣れない難しい仕事なので、極力対応したくない。そういう難しい仕事の処理マニュアル、というのが、また文章でダラダラと書いてあるから、読んでも理解できない。理解できない癖に、なんとか断る理由を探そうとするので、言ってることが支離滅裂になる。それでも謝らない。間違っていても絶対に謝らない。

まず渡米直後に窓口に行くと、「まだ移民局からあなたの入国情報が転送されてきていないので、2週間後に来てくれ」と追い返される。これはよく言われることらしいので、あきらめて戻ってきたのですが、窓口の担当者によっては、受け付けてくれるケースもあるそうな。2週間後、と言っていたけど、どうせサバを見ているんだろうから、と、1週間後に行ってみたら、散々待たされた末に、「あなたを雇用する会社の雇用証明書を移民局に出して、労働許可証を出してもらわないと受け付けない」と言い出す。そもそも就労VISAをもらえているってことは、労働許可をもらえてるってことだろうがよ、オレの同僚が何人もSSNもらってるけど、そんなこと言われたことなんかないぞ、と噛み付くと、窓口のライオンみたいな髪の毛のお姉さんが逆ギレして、「あんたの同僚はSSN事務局で働いてるのかよ、私はここで働いてるんだよ。SSN事務局で働いている人間の言うことと、あんたの同僚が言うことと、どっちが正しいって言うんだよ」とわめきだす。一瞬引き下がったのだけど、どうしても納得いかず、同行してくれた会社の同僚と二人して、もう一度同じお姉さんのところにねじ込みに行くと、プリンターのところに行って、運用マニュアルの一部を印刷して、自分で読んでいる。しばらく読んでいると思ったら、何も説明せずに、「パスポートと申請書をもう一度出せ」と言われる。出すと、PCに何やらカチャカチャ入力して、申請を受け付けた、と。

労働許可証が必要なのは、あなたの配偶者が米国内で仕事をしたい場合に、配偶者の労働許可証が必要、ということだった」と。一応、一回だけ、「sorry」と画面に向かって呟くように言ったので、まだましな担当者だったのでは、と思います。顔はぜんぜん謝ってなかったけどね。おかげさまで、その後10日もたたないうちに、SSNカードが送られてきました。これか?と思うようなペラペラの紙切れ一枚です。

米国が高度にマニュアル化された社会であることは事実で、そのマニュアルどおりに運用されれば完璧に機能するよう、エリートたちは完璧なマニュアルを作っています。でも、実際に運用する人たちは、そういうマニュアルを読み解くだけの英語力を持っていない。結果的に、窓口の人たちの読解力が、実際の運用を左右する=いい加減な運用がまかり通る・・・

ビジュアル化され、誰にでも理解できるマニュアルのおかげで、日本では日本語力が失われ、かつ、「マニュアルの説明が悪いからトラブルにあった」という苦情に企業が振り回される。自分の読解力が弱いのを棚に上げて、マニュアルのせいにする日本人と、自分の読解力が弱いのを棚に上げて、「オレが正しい」と開き直る米国人。どっちもどっちだと思うけど、一つだけ言えることは、ビジュアル化されたマニュアルをうまく作成する能力を評価される日本のエリート層に比べて、あくまで文章でのロジックを完璧にくみ上げることを求められる米国のエリート層は、言語力と論理構成力において格段に優れている、ということ。漫画文化の最大の功罪は、日本のエリート層の日本語力を破壊したことじゃないかなぁ、と、改めて思いました。