お弁当といえば

ここのところ、仕事が忙しく、コンビニ弁当やらカップラーメンやら、近所の立ち食い蕎麦やら牛丼屋やらで昼も夜も済ませてしまう、という日々が続いておりました。さすがに見かねた女房が、最近お弁当を作ってくれるようになり、多少食生活のバランスが取れるようになってきました。昨日は先日収穫した小松菜の炒め物が入っていて、家庭菜園食材も活躍し始めております。

女房は毎朝早く起きて、娘と私の弁当を作ってくれるんですが、毎朝、「パパの弁当は大きいよねぇ」と言いながら並べて見ている。並べてみれば、パパの弁当は娘の弁当の2倍以上の大きさである。娘はちゃんと骨になり肉になっているのだけど、パパはひたすら腹の周りに溜まるだけ、と考えると、なんだか申し訳ない気もしてくるやね。

と思ったら、今朝、最近お昼にお弁当を持参する人が増えている、というニュースを見ました。聞けば、最近の不景気で、節約志向が高まっていて、外食代を節約してお弁当で済ませよう、と言う人が増えているそうな。

でも、節約、というだけじゃなくて、お弁当と言うと、なんだか気持ちが高揚する感じがしてしまうのは、私が給食世代だからですかね。普段は給食なので、お弁当を持たされる、というのは、運動会とか遠足といったイベントの時だけだった。そういう時の気分が残っているのかもしれない。

一方で、そもそも日本の「お弁当」というのと、いわゆる西洋の「ランチボックス」というのは根本的に違うもののような気がするんだな。日本のお弁当、というのは、いわゆる駅弁に象徴されるみたいに、四角い箱という限定されたスペースに、彩り美しく、またバラエティに富んだ食材をいかに詰め合わせるか、という、非常に日本的な文化の産物のような気がするんだね。ウォークマンや高機能携帯を生み出した、「詰め込む」という日本のお家芸に通じる感覚。

蓋を開ける前のワクワクや、小さな弁当箱にコマコマと詰め込まれたおかず達の可愛らしさ、なんていう、「お弁当」自体の持つ非日常的な感覚も、お弁当が嬉しい、という気分につながってくるのかもしれない。毎朝早起きしてお弁当を作ってくれる女房どのに感謝感謝です。