子供には時々ぎょっとさせられる

いつも娘を寝かしつける時には、本を読んで聞かせたり、デタラメなお話を作って聞かせたりします。先日は、娘が、「『じぶんし』を作ろうよ」と言い出す。「じぶんし」?「自分で作った詩のことだよ」と娘は言う。「じゃあ、わたしからね。」

といって、娘が作った詩が、(少し言い回しは違っていると思うけど)、以下のような詩。
 

                            • -

「今日」

今日って、何の今日なんだろう?
あした、あさって、しあさって
きのう、おととい、さきおととい
今日は、どれが今日なんだろう?

                            • -

 
「そうだねぇ、明日だって、明日になれば、『今日』になっちゃうし、昨日だって、昨日は『今日』だったんだもんねぇ」と言いながら、「時間」というものの本質に近いことを考えている小さな頭に、ちょっとぎょっとする。

そういう、子供の「虚心坦懐」な感想にぎょっとすることもあるけれど、大人からの情報のインプットが、子供にたやすく先入観を植え付けていることにも、時々ぎょっとします。私は以前から、この日記でも、「米国と中国ってのはどうも好きになれん」とブツブツ言っておりますが、娘の頭にもそれが刷り込まれてしまったらしく、こんな会話がありました。
 
娘「ねぇ、ノーベルさんって、自分も何かを発明したから、何かを発明した人に賞をあげようって思ったの?」
私「ノーベルさんはね、ダイナマイトを発明したんだ。爆弾だね。これで工事が楽になる、人の役に立つぞ、と思って発明したのに、ダイナマイトは戦争に使われて、沢山の人がダイナマイトで殺されちゃった。それを見たノーベルさんは、そんなつもりじゃなかったのにって、とっても後悔した。それで、ダイナマイトで儲かった沢山のお金を使って、『ノーベル賞』という賞を作って、人の役に立つ発明をしたり、人を幸せにした人に、その賞をあげようって思ったんだよ。」
娘「(しばらく考えて)私は、世界で最初にダイナマイトを戦争に使ったのは、アメリカか中国だと思うね。」
 
・・・これを聞いて、アンチ中米思想に偏っている父親はかなり反省いたしました。

子供は親の鏡で、その鏡には曇りがない分、ものすごく真っ直ぐに日常の疑問を映し出すこともあれば、親の醜い姿をそのまま映し出すこともある。子供から見て恥ずかしくない親であるかどうか、というのは、自分の行動を決定していく上での一つの指標になります。

ちなみに、冒頭の「じぶんし」で、私が作った詩は以下のような詩です。
 

                                  • -

「おなか」

パパのお腹はポコポコします
パパのお腹はゴロゴロいいます
パパのお腹はたるんでいます
パパのお腹は柔らかいです
パパのお腹を枕にすると
とってもぐっすり眠れます

                                  • -

 
女房には不評でした。さて、仕事に戻るぞ。