「たら」「れば」

結婚10年目となると、身の回りの色んな電化製品の調子が段々悪くなってきます。以前から吸い込みのよくなかった電気掃除機が、「ぴー」だの「うぃーん、うぃーん」だのという正体不明の音を上げるようになり、以前から内釜がかなり傷んでいた電気炊飯器が、保温と炊飯のランプがついたまま、静かに冷たくなっていく、という状況に。思い切って、買い換えよう、ということになりました。

で、週末、新宿のヨドバシカメラで電気掃除機と電気炊飯器を購入。最近白物家電が元気だ、というのは聞いていたのだけど、色んな便利な機能があって、しかもシンプルで使いやすいね。色んなメーカーのを眺めて比べたのだけど、結局、両方とも三洋電機のものを買いました。三洋電機は、会社の経営自体は結構ボロボロになっているようだけど、白物家電の商品力は決して衰えてない感じがします。デザインもすっきりしているし、無駄な機能がなくて、こちらがこだわりたい部分はきっちりこだわってくれている。炊飯器のデザインも、小ぶりの割りに操作ボタンが大きくて使いやすいし、他のメーカーがペランとした内釜なのに、三洋製だけは重厚な感じのする頑丈な内釜で、女房はこれが気に入ったそうです。

帰宅後、女房が大喜びで炊飯器の取扱説明書を読みふけっている。そのうちに、「なんかヘンだ」と言い出す。「この説明書、日本語がなんだかおかしい気がするなぁ」

中国で作ったものを日本語に翻訳してるんじゃないの、なんて話をしつつ、「どこがおかしいの?」と聞いてみると、「『れば』の使い方がなんだかヘンな気がするんだ」と。例えば、
 
「お米が炊ければ、数分蒸らします」
「お豆が煮えれば、ふたを開けます」
 
みたいな感じで、「れば」という言葉が多用されている。女房と二人で、「それって、『れば』じゃなくて、『たら』じゃないとおかしい気がするよね」と言い合う。
 
「お米が炊けたら、数分蒸らします」
「お豆が煮えたら、ふたを開けます」
 
なら分かるよね。違いが分かってもらえるかしらん。

「れば」という言葉には、「たら」という言葉よりも、仮定のニュアンスが強い気がするんですね。炊飯器というのは、自動炊飯器なんだから、ボタンを押せば、何もない限りお米は炊けて当たり前。その当たり前のところで、「れば」を使われると、「お米が炊けないこともあるのかよ」と突っ込みたくなってしまう。「お米が炊ければ、数分蒸らしますが、炊けなかったら、運が悪かったと諦めてください」ってか?

「たら」と言う言葉には、「れば」よりも、段取りや手順、というニュアンスが強い気がする。仮定の意味にも使えるので、「れば」よりも範囲が広い言葉かもしれない。「雪が降ったら、雪だるまを作ろう。雨だったら、家で寝ていよう」という言い方はありえますからね。でも、普通の段取りを語っている文脈で、仮定のニュアンスの強い「れば」を使われると、そこに別の状況がありうる気がしてきてしまう。

「水を加えて、材料が柔らかくなったら、火にかけます」・・・違和感ないよね。
「水を加えて、材料が柔らかくなれば、火にかけます」・・・柔らかくならないかもしれないから、その時には別のものを加えるわけね?っていう気分になりませんか?

女房と、「取り扱い説明書を作る側にも、それをチェックする側にも、こういう日本語の感覚みたいなのが鈍くなってきているのかもしれないね」と言い合う。先週、会社の研修に出ていたのだけど、外部講師の先生(つまりは、人に教えることのプロ=言葉のプロ)が、板書の文字が誤字だらけでなんだか白けてしまった。「購入」という字を、「講入」なんて書くんですよ。なんかネズミ講にでも入れられるような気分になるよねぇ。

と言いながら、自分自身も、パソコンに慣れてしまって、手で漢字が書けなくなってきています。色んなところで、日本語の力が弱くなってきている。それは、コミュニケーションというもの自体の弱体化を意味するし、その行き着く先は・・・結構怖い社会かもしれないって思います。