娘が髪を切りました

娘が、背中くらいまで届いていた髪をばっさり切りました。学校の臨海学校が近づいてきたので、自分でちゃんと面倒を見られるくらいに、短く切ってください、という学校からの指示があったため。娘は、お風呂で自分で髪を洗いながら、「髪がすくなーい!洗いやすーい!」と叫んでおります。

そういう指示が出たので、娘のクラスでは、今まで髪の長かった女の子が、ばさばさ髪を切っている。「今日はxxちゃんが髪を切ってきた」「今日はyyちゃんが」という話をするのだけど、それでふと、自分の子供時代を思い出す。確かに、クラスメイトが髪を切るっていうのは、結構大きなイベントだった気がするなぁ。

私は割とイジメられっ子で、クラスの連中にイジられやすいキャラだったせいもあるんだろうけど、髪を切ったり、メガネを代えたりすると、やたらと同級生が私の顔を見て指差して笑う。何がおかしいのか、よく分からない。そう言いながら、自分も、他のクラスメイトが急に髪を短くしたり、メガネを代えたりすると、指差して笑ったりした記憶がある。

なんでかなぁ、と考えると、子供時代って、まだその人をアイデンティファイする情報が足りない・・・というか、変化している最中だ、ということが大きく影響している気がするんですね。要するに、xxちゃんというのは髪の長い子だ、ということでその子を規定している。それ以外に、その子を「xxちゃん」と規定している情報が少ない。なので、髪をばっさり切られてしまうと、その子を「xxちゃん」と特定している一つの大きな要因が根本的に変貌してしまう。笑い、というのが、それまでの常識と実際に発生している現象とのズレの中で生じることが多い、とすれば、「xxちゃんは髪が長い」という常識と、「髪の短いxxちゃん」という現象とのズレが、笑いという形で昇華されている。

これが大人になって、髪の長いxxちゃんも、髪の短いxxちゃんも、同じxxちゃんなんだ、という個体認識が確立すると、xxちゃんが髪を切った、という状況だけが笑いを生むことはなくなる。よっぽど似合わない、笑うしかない髪型にでもしない限り、大人が人の髪型を笑う、ということは発生しない。メガネを代えたとしても同様ですよね。

時々不思議になるんですが、こういうことを考えていくと、「一体人間って、人のどこを見て、『この人はppさんだ』と個体認識するんだろう」と思うんです。自分自身の経験でもそうなのだけど、誰かが、髪型を変えてきても、その人とちゃんと分かる。マスクで顔のほとんどの部分を覆っていたとしても、その人と認識できる。極端な話、後姿を見ただけでも認識できたりする。

昔、大学時代に、ある大学の心理学科にいた友人から、「実験のモニターになってくれ」と言われたことがあります。コンピュータの画面に、ある男性の顔写真が映っている。その側に、別の顔写真が次々に現れる。「この男性と同一人物だ、と思ったら、Yesのボタンを、別人だと思ったら、Noのボタンを押してください」という実験。

最初、何枚かの写真で「No」と押してしまったのだけど、数枚目から、「同じ男性の写真の、髪型とひげの形を変えただけだ」ということが分かって、そこからはずっと「Yes」を押し続けました。それでも、髪型がすごく変わってしまうと、印象が全然違うので、反応速度がかなり遅くなってしまう。髪型って、個体認識上すごく大事なんだな、と思いながらも、でも、髪型が違うくらいでは、別人とまでは思わないもんだなぁ、とあらためて認識。

よく、整形手術で別人になりすましてしまう、なんて話がありますけど、本当に別人になりたかったら、やっぱり整形手術にまで踏み込まないとダメなんでしょうねぇ。それでも、人のかもし出している雰囲気や、外見以外の要素が、個体識別の一つの手段になっているとすれば、自分の生活環境の全てを変えて、意識して性格も変えて・・・と自己改造を加えていかないと、別人になりきるってのは大変なことなんだろうなぁ。

以前にも日記に書いたけど、私にとって、メガネ常用者だったのが、コンタクトレンズ使用者に変わった、ということが、自分自身の性格に与えた影響って大きい気がする。割と内向的だったのだけど、それだけで、性格がちょっと外向きに変わった気がするんですね。髪型を変えて、気分を変えよう、なんてのはよく聞く話。人間、外見ってのは大事なんだけど、外見だけじゃない部分も大きい。短い髪で走り回っている娘を見ながら、この子はこれから、外見も内面もどんどん変化していくんだな、と、あらためて思いました。