「ノクターンの恋人たち」〜計算しすぎるとアカンのよ〜

20日、会社をお休みし、桜木町に出かける。今度、5月16日に、みなとみらいの小ホールで開催される、女声合唱団、湘南沙羅&アマトーリ・ディ・ムジカのジョイント・コンサートで、朗読のお手伝いをすることになったのです。その練習にお邪魔しました。

今回の朗読は、アマトーリ・ディ・ムジカの皆さんの単独ステージで取り上げられる、「ノクターンの恋人たち」という合唱組曲に挿入される解説文です。こやま峰子さんという方が書かれた、ショパンの恋人と言われた女流作家、ジョルジュ・サンドの生涯をつづった「ノクターンの恋人たち」という本があり、その本の中に書かれた詩に、金井信さんが作曲された合唱曲。各曲の間に、ジョルジュ・サンドの生涯を簡単に説明する文章が挿入されており、その文章が示す場面を、ジョルジュ・サンドの視点から合唱団が歌う。合唱団の皆さんに、「合唱団の皆さん一人ひとりが、ジョルジュ・サンドになりきれるように、舞台をその演技空間に転換する役割が、ボクのナレーションだと思っていますので、演じやすいように、きちんとその場面を作り上げるよう、頑張ります」、と偉そうに申し上げました。大丈夫かなぁ。

練習前、一通り原稿を読み、チェックして、強調するべき言葉、全体の雰囲気などを色々とメモしてから、練習に臨む。帰宅後、録音したMDを聞きなおしてみて、女房に、クビを傾げられる。「どうも、間が悪いね。」

事前の予習と、メモ、という形で、文章や大事な単語の前に取るべき間に、記号を打っていく作業をしてあったのですが、今度はその記号に囚われてしまって、間がただの「間」になってしまっている。結果、「どの間も機械的に同じ間で、キモチワルイ」と女房に言われる。こりゃまずい。

きちんと「間」の間にも意味を埋めなければならない。間以外でも、「ここは明るく、幸せそうに」とメモしたところが、かえって明るすぎて軽薄になっている。薄っぺらいオカマっぽい声になっている。これまたまずい。

予習は大事だし、計算というのも必要です。一度、自分なりにきちんと「型」を作ってみる作業というのはとても大事なんですが、それで満足してしまうとダメ。その型の中に演技をはめようとするあまり、「型」のベースになるべき感情や、気持ちが消滅してしまうんですね。感情を想像することで、「こうあるべき」という型が生まれ、その「型」をきちんと表現する中で、さらに「感情」が形になって表現されるようにならねば。

以前、今回も声をかけていただいた辻志朗先生が指揮されている、コール・サファイアという合唱団で、女声合唱組曲「パウラ」という曲をご一緒させていただきました。女声合唱団の演奏会でのナレーションのお仕事、というのは、それ以来。あの曲では、「パウラ」という女性を捜し求めて旅する男性と、ナレータのキャラクターが微妙に重なっているような、演技つきのナレーションだったんですが、今回は純粋な解説文。そういう意味で、ナレータの「感情」があまり表に出ない方がいいのかな、とも思ったりしたのですけど、ちょっと違う気がする。舞台装置の転換の役割を果たすには、観客にその場面を想像させる感情のコントロールが必要だから、やっぱり、読み手の心の動きをきちんと表現しないと、観客にも共感してもらえないんですよね。

志朗先生が、「朗読者が世界を作り、歌い手がそれに応じて世界を作り、それがまた、朗読者の表現を変えていくような、そういうキャッチボールが出来たらいいですよね」とおっしゃっていました。そんなところまでたどり着ければいいんですけど。