線路を歩く

昨夜、例によって残業で、会社の近くで食事をして帰宅。疲れたし、新宿から座って帰ろう、と、いつもならギュウギュウ詰めの特急に乗るところを、1本見送って急行電車に乗りました。後から考えると、これがラッキーだった。

乗って座るなり白河夜船を決め込んで、ふと目を覚ますと、電車が止まっている。どの駅かな、と思ったけど、ドアが開いてない。窓の外を見ると、真っ暗。トンネルの中である。京王線の新宿から調布間のトンネル、というと、新宿から笹塚に上がっていく出発点の短いトンネルしかない。結構寝た感じなので、「あれ、乗り過ごして、調布より先のどこかのトンネルにいるのか?」と一瞬混乱する。

時計を見ると、10時15分くらい。急行の新宿発時刻が9時50分くらいでしたから、本当ならとっくにつつじヶ丘くらいには着いているはず。これはなんだかおかしいぞ、と思ったら、

「明大前〜代田橋間の踏切で、自動車と電車が接触したため、全線電車が停止しております」

というアナウンスが流れる。やられた。事故の規模によっては、これは相当時間がかかるぞ、と覚悟する。車内は結構混んでいて、立っている人の中には、既に、うんざり、という空気が流れ始める。座っていてラッキー、という所なのだけど、それにしても時間をもてあます。トンネルの中なので、携帯も通じない。家に連絡することもできず、ただ時間が過ぎていく。

10時45分ごろになって、やっと少しずつ電車が動き始める。トンネルを出て、携帯がつながるようになると、車内のあちこちで、たくさんの人たちが、自分の行き先に状況を連絡し始めました。すると、

「この電車は、これ以上先に進める目処が立ちませんので、線路に降りていただき、最寄の駅まで誘導いたします」

というアナウンスが流れる。車内にどよめきが走る。京王線の線路歩くなんて初体験だよ。子供の頃、近所を走ってた貨物線の線路とか、よく歩いたけどねぇ。

しばらくしてドアが開く。開くドアは、1車両に1つずつです。複数あけると、一度にたくさんの人が降りてしまって危ない、ということらしい。ドアから線路まではかなりの高さがあるので、ぴょん、と飛び降りることができないおじさんは、床に座ってよっこらせ、と降りました。降りたところは、笹塚駅近くの高架の上。乗務員さんの誘導準備ができるまで、しばらく待たされる。高架の下の道路を見下ろすと、犬の散歩をしていたおじさんがこっちを見上げてびっくりしている。そりゃびっくりするわな。


電車から降りる

ミニスカートの女性やハイヒールの女性は、高い扉から降りるのに相当苦労されていました。電車のシートを外して、はしご代わりに扉に立てかけたり、線路脇に並べてクッション代わりにされたり、という光景もありました。電車のシートって、そういう使い道もあるのか。


笹塚駅に昇る

面白いなぁ、と思ったのは、たくさんの人が、携帯電話のカメラで状況を撮影していたこと。私も撮影しましたが、携帯電話っていうのは「情報共有の即時性」という観点でいうとものすごく強力なツールですね。撮影した写真をリアルタイムで自宅に送り、「こんな感じだよ」と連絡する。女房が心配しながらも、

「キミ、状況を楽しんでないか?」

と突っ込んでくる。割と楽しんでるかも。西調布あたりだったら、タクシーで帰ってもなんとかなるからねぇ。しかし、八王子あたりまで帰ろうとしている人は悲惨かもしれん。


駅の人だかり

振替輸送などの情報を求めて、笹塚駅の改札口脇の駅員事務所にはすごい人だかり。私は早々にあきらめて、甲州街道でタクシーをつかまえようとしましたが、下り方面はタクシーの奪い合いでどうにもならない。上り方面でようやく一台捕まえて、中野までタクシー、中央線で武蔵境まで出て、またタクシー待ちの長蛇の列をクリアして、やっと自宅にたどり着いたのは午前1時近くでした。

なかなか得がたい経験で、事故の犠牲になった方にはお気の毒、と言うしかないのですが、主な感想を3つほど。

一つは、前述の、「携帯電話のリアルタイム性」です。あちこちで携帯電話で状況を撮影したり、家族に報告したりしている人たちを見る。こういう事故があれば当たり前に見られた、公衆電話の前の長蛇の列、というのは全く見かけず。携帯電話というツールが災害や事故に強い、ということも実感しましたけど、こういった想定外の事態においても、自分が帰属する共同体との一体感を維持できるツール、という携帯電話の特性について、少し考えてしまいました。

もう一つは、日本人という民族の秩序感の強さ。止まった電車の中でただ待っている時間。ドアが開いたときの、整然と係員の指示に従う様子。改札口に溜まっている人たちの間からも、多少なり怒号も聞こえはしましたけど、そういう人は本当に少数派で、ほとんどの人たちは責任者の指示を大人しく待っている。そういう姿に、「だから日本人は自分で判断ができない」とか、「だから日本人は個というものを持っていない」なんて批判的な目を向ける人はいるかもしれないけど、じゃあ、暴徒化して駅員になぐりかかる輩や、止まった電車から勝手にドアを開けて降りようとする乗客が出てきたら、「日本人も個性的になってきた」なんて喜ぶつもりかね。日本人のこういう秩序感というのは、事故や災害といった危機的状況において、ものすごく力を発揮するものだと思います。大きな災害や事故が起きるたびに、軍隊を出して秩序維持に奔走しなければならない某超大国のような、「個性的」な国になればいいってものじゃないと思う。

3つめ。東京という都市の持っている二重三重のバックアップ体制を実感したこと。確かに時間はかかりましたけど、電車が完全にストップする、という緊急事態に対しても、タクシーやその他の在来線を乗り継いでいけば、なんとか帰宅することはできる。地方にいくと、本当に「生命線」になっている路線や道路があって、それが切れてしまえば全ての交通が途絶する、という場所は結構あります。選択肢がないんですね。そういう選択肢のない状態に陥ると、ただあきらめるしかない。あきらめてしまった後に生まれてくること、というのは、確かに不便なことかもしれないけど、実は意外と楽しいことだったりするのかもしれない。例えば、駅の構内でただぼおっとする、とか、近くのホテルに泊まってしまう、という経験を、「ふざけるな」と怒りながら経験するか、「しょうがないなぁ」と、その状況をかえって楽しみながら経験するかによって、全然印象は変わってくる。そりゃ、生死の境をさまようような、一刻一秒を争う状況では、そんな悠長なことは言ってられないけどね。

他にどうしようもない、と、あきらめるってのは意外と心のゆとりにつながるのかもしれない。夏目漱石の「三四郎」の冒頭、電車が遅れて見知らぬ女と宿を共にするエピソードがあったと記憶してますが、ああいう心のゆとりというか、ゆったりした時間感覚ってのもいいと思う。選択肢が多い、ということは、「なんとかなるはずだ」「他の手段があるのに、どうしてできないんだ」なんていうストレスを生む元凶なのかもしれない。そんなことを考えながらも、帰宅して娘の寝顔を見ることができて、東京という町の便利さに改めて感謝しました。よかったよかった。