みんな違って、みんないい。

最近、米国で、ウォルマートバッシングが盛り上がっているそうです。まぁあの会社はしょっちゅう叩かれているので、またかい、という気もしますけどね。企業としての利益を最大化するために、従業員に低賃金で過酷な職場環境を強制している、というバッシングだそうです。

一方、日本でも、阪神を巡る村上ファンドの動きとか、「会社は株主のものだ!」という「ものいう株主」の発言が取り上げられることが多いですね。もちろん、日本では今まで「会社は誰のものなのか」という議論が希薄でしたから、アンチテーゼとしての株主主権主義の主張が出てくるのは理解できる。でも、それが行き過ぎると、ちょっと危ないなぁ、という気がしています。

会社、という組織は、複数の関係者の利害が絡み合う組織なので、そこで一つの利害関係者の声が大きくなりすぎてしまうと、組織としての歪みが出てきてしまう。多数の利害関係者の多様な意見をバランスさせることで、組織の健全性が図れる部分というのは必ずある。よく言われる、「会社の利害関係者」として、「株主」「経営者」「社員」「顧客」の4者が挙げられますよね。もちろん、顧客の利益が最優先されるべきなんだけど、そのために社員の生活が犠牲になるのはやはりまずい。「地域社会」とか、「取引先」といった利害関係者も沢山いて、これらに対する責任をきちんと果たしましょう、という話が、いわゆる「CSR」と言う議論として最近取り上げられてきている。

ウォルマート問題で言われている「社員待遇」の問題。「CSR」という言葉で言われている、企業の社会貢献の問題。この2つの問題というのは実は同根なんじゃないか、という気がしています。つまりは、会社の利害関係者として、「株主」「顧客」の力が強くなり、株価を上昇させるための利益至上主義と、顧客満足度を向上させるためのサービス競争が激化してくると、間に立っている「経営者」「社員」の生活がボロボロになっていき、かつ、地域社会に対する責任が果たせなくなっていく。でも、これって、要するに、「資本主義」の本質なんですよね。

資本主義の究極の形は、顧客に対して最大価値を提供できた複数の勝者たちが、さらなる価値を提供することを競うことによって社会が発展していく、という思想です。最近、社員待遇の問題やCSRの問題が声高に叫ばれる背景には、「資本主義」という思想で、世界が単一化されてきたことが背景にあるんじゃないか、という気がしています。要するに、ウォルマートが叩かれるのは、ソ連が崩壊したからなんじゃないかな、ということ。

ソ連共産主義、という思想は、資本主義という思想に対するアンチテーゼとして機能していた。資本主義が見失いがちな、「労働者」「生活者」の観点を持ち込むことで、バランスをとっていたのが共産主義。その思想が瓦解したことによって、資本主義一人勝ち状態になり、「労働者」の力や、「生活者」=地域社会の発言力が急速に弱まってしまった。結果として、現在米国のホワイトカラーは、みんな過労でボロボロになり、そんな激務に耐えられない人たちは、低賃金の労働を強いられて貧者層に落ちていく。そうして、貧富の差はひろがり、各種の社会問題が多発しても、利益追求型の企業には何もできない。

だからやっぱり共産思想は正しかったんだ、とは思いません。でも、最近の社会を見ていると、「急激な変化に即応するため」という大義名分のもとに、複数の意見を取り入れて調整する、という過程がすごくおざなりにされている気がする。小泉政権も単一色に染まってしまったし、米国強権主義も不愉快だし、かといって中国中華思想も嫌なんだけどさ。

単一の思想に染まること、というのは、色んな意味で危険だと思う。先日受けた研修で、モーリシャス共和国、という国が取り上げられていました。この国は非常に複雑な歴史のもと、極端な多民族・多宗教国家として成立しているのだけど、それぞれの民族の独立性を尊重することで、アフリカの国家としては珍しく経済的にも政治的にも安定した国づくりを実現しているそうです。「みんな同じ、なんて気持ち悪いじゃないですか。みんな違って当たり前。違うからこそ、知恵も出し合える」。異なる立場からの異なる意見が、自分の視野を広げていく刺激になる。金子みすずさん流に言えば、「みんな違って、みんないい」んです。

資本主義のアンチテーゼとして、ある意味健全な形で存在していた共産思想が瓦解して、代わって資本主義に対する敵対勢力として台頭してきたのがイスラム原理主義だ、というのはなんだか殺伐とした話だなぁ、と思う。コンセンサス型の穏健中道派では解決不能なくらい、社会を変えないといけない局面にある、というのは理解できるけど、だからこそ多数意見を尊重するバランス感覚を失ってほしくないなぁ。