否定したり回顧するのは簡単だけどさ。

NHKで放送されていた「ハルとナツ」、昨日の最終回の放送だけチラチラ見ていました。橋田ドラマは途中から見ても全体が分かる、という、なんだかホログラフィのようなドラマ(ヘンなたとえ)なので、大体のストーリは分かったんですが、ラストシーンで、いきなり戦後日本を完全否定したのには結構驚いた。気持ちは分かるけどねぇ。

少し前、仕事の関係で、半年に一回ブラジルに出張していたことがあります。数日の、それも仕事での滞在で分かることなんか限られてますけど、現地で会った日系ブラジル人の方々の勤勉さには驚いた記憶がある。勤勉さと、ブラジルらしい、「アミーゴ」(=仲間)意識のミックスで、どの方も人のつながりを大事にし、仕事に一生懸命、という印象を持ちました。繰り返しになりますけど、短期間の滞在と対話では、人のいい面しか見えませんし、相手もいい面しか見せませんから、本当のところは分かりませんけどね。

でも、例えば隣のペルーなどでは、エリートの職場といわれる政府系機関に働く日本人の割合はすごく高いです。人口に占める日本人の割合が数%なのに、官庁に行くと日本人の職員が3割近くいたりする。プランテーション農場で、ほとんど農奴状態でこきつかわれていた日系人が、「子どもにはそういう生活をさせたくない」と、子どもの教育水準を確保するために、必死に努力した結果だそうです。同じような話は、一時期日本に大量に流入してきた日系南米人の方々にも言えて、職場でのモチベーションの高さや、家族思いの生活態度に、日本人の方が恥ずかしくなることが多いそうな。

それを、戦後日本の精神の貧しさ、ということで、「だから戦後ニッポンはダメなんだ」と全否定したり、「戦前はよかった」「戦後すぐの日本は、貧しかったけどみんな頑張ってた」なんて回顧するのは簡単なんだけどさ。これからの日本をどうする気なんだい。日本に未練はない、なんて、全員でブラジルに行くかい?

ブラジルの日系人の姿を理想化するのは構いませんが、ブラジルは決して理想的な国ではありません。犯罪発生率は高く、出張したときでも、「夜は出歩いてはダメ」と言われる。自宅の車庫でホールドアップにあって車を盗まれた、とか、市街地で銃撃戦に巻き込まれそうになった、なんて話しはしょっちゅうです。内陸部では未だに、大農場主と農奴同然の農民たちの間の支配・従属関係が存続しており、大農場主が10人くらいの妻を持って幸福な大家族を構成してる、なんて話もまだ聞きます。どんな国にだって、表と裏がある。経済的繁栄の裏で見失われてしまった家族の絆を強調するためのアンチテーゼとして、ブラジル風の大家族を理想的に描くのは結構ですが、それだけに目を奪われると誤解が生じる。

ブラジル日系人が、家族の絆を深めたのは、そういったブラジルの経済環境の中で、家族が一丸とならないと生活できなかった、という背景もあるはずです。逆に、経済的に繁栄した日本において、家族がバラバラになってしまっているのは、家族がバラバラになっても生活できるからです。人間は社会的な動物、と言われますが、人間は本能として、家族という絆の中で生きたいと願うものなのか、それとも、可能ならば家族ではなく個人として生きたいと願うものなのか。人間の幸福とは、家族の絆の中にあるのか、独立した個人の自己実現の中にあるのか。そういう観点で突き詰めた幸福論を考える必要があると思う。経済的な繁栄こそが幸せ、とは言わないけど、定常的な飢餓状態の中で、個を圧殺されながらも、家族との一体感を味わう幸せが欲しいかい?

私が、舞台という表現にこだわっているのは、映画やTV、本といった表現と比べて、観客と舞台が一つの「場」を共有できる一体感が好きだから。独立した個人がそれぞれの才能を持ち寄って完成した一つの舞台によって、個人の間に共有される一体感。人間が得られる幸福感の一つの理想的な形が、ここにあるような気がしているんです。そういう幸福を実感できる場が、今の子ども達に充分に与えられていない、ということが、現代日本の精神的貧しさの一つの原因のような気もするのだけど、我田引水的な話かなぁ。