「自分」を捨てること、「自分」を認めてもらうこと

一つの舞台を作っていく時、それに関わっている人たちには色んな感情のベクトルが働きます。舞台上の役者さん達は、大体例外なく、「私を見て!」と思っている。「私を認めて!」「私の声を聞いて!」。自分の意見や声が、人に伝わっていなかったり、認められていない、と思うことは、舞台上に立つような自己顕示欲の強い人々にとって悲しいことだし、時には屈辱的だと思うこともある。自分が、単なる歯車のひとつなのだ、と思うことは、中々厳しいことです。

かなり以前に、この日記でも紹介した、ゼフィレッリの自伝の中で、彼が初めてスカラ座の演出を取る場面があります。スカラ座の合唱団を演出する際、彼は友人から忠告されます。「この合唱団の人たちは、普通の人たちじゃないんだ。明日は舞台の中央に立つんだ、と思って必死に頑張っている人もいる。ずっと合唱団員としてやってきて、自分のやり方はこうだ、という信念を持っている人もいる。『合唱団員』と一括りにされるのは、彼らにとっては屈辱的なことなんだよ」

その忠告を聞いたゼフィレッリは、合唱団員一人ひとりの名前と顔を事前に全部覚えこみ、それぞれの人の性格などの基本データを全部頭にインプットして、演出に臨みます。合唱団員への指示は、「合唱団」に対してではなく、合唱団員一人ひとりの名前を名指しし、一人ひとりに演技指導をつける濃密なものとなり、彼はスカラ座の頑固な合唱団員の心を捉える。

週末、大田区民オペラ合唱団の練習に参加。衣装のテイストを確認しましょう、ということで、演出家の伊藤明子先生初め、舞台監督の八木清市さんなど、練達のスタッフの方々がそろう。八木さんの助手、ということで、ガレリア座サントリーホールでのガラ・コンサートの舞台監督をしてくださった、伊藤ひでみさんもいらっしゃいました。伊藤明子先生が、一人ひとりの団員を並ばせて、一人ひとりの衣装を細かくチェックしていきます。

最後にお会いしたのは、同じ大田区民オペラ合唱団で2000年に上演した「コシ・ファン・トゥッテ」以来ですから、もう5年前になるんですねぇ。それでも、私の顔をちゃんと覚えていてくださって、「久しぶり!」と、全然変わらない笑顔で声をかけてくださる。団員全員の名前と顔をきちんと覚えていて、一人ひとりの衣装に細かい注意をされていく。相変わらず若々しく、確信に満ちた語り口で、すっかり団員全員の心を捉えてしまいました。本当にすごい。

でもね、こういうすごい演出家が、「xxさん」と声をかけてくれたからといって、こちらが舞い上がったりしたら大間違いなんだよね。自分はあくまで合唱団員。自分はあくまで、ソリストの背景として、舞台を構成する一つの歯車である、という自覚を、逆に、舞台役者としては持たないとダメ。「私を見て!」ばっかり言っている役者たちを、「はいはい、ちゃんと見てますよ」と演出家がなだめている。なだめられて安心する、そんなレベルの役者になっちゃいけない。

優れた演出家が、団員一人ひとりをきちんと把握してくれる、その優しさや能力に感激する一方で、役者としての自分は、「私を見て!」という感情をどれだけ捨てきれるか、ということを考えないとダメだと思います。舞台上の登場人物たちは、「私を見て!」なんていう演技はしません。自分の人生を、ただひたすらに生きているだけです。その登場人物の人生を、どうやったら客席に対して、美しく、際立たせることができるのか。

ガレリア座の本番も始まります。アマチュア団体ですから余計に、「自分が」「自分が」という意識が強くなりがち。そういう意識をとにかく戒めて、舞台上の一つの歯車として、求められる役割をいかに真剣に生きるかについて、常に考えなければ。舞台上の役者としてもそうだし、一団員としても、「自分のこと」よりも優先しなければならないことが沢山あるはず。

団員の声に耳を傾けながら、辛抱強く自分の思い描く舞台を作っていこうとする、伊藤先生の姿を見ながら、自分自身も、シチリアの一人の農民としてどう舞台上で生きるか、その姿をどう客席に届ければよいか、本番まで真剣に考えようと思います。これからの演出練習が本当に楽しみ。