「泡宇宙論」〜自分がコメツブになる〜

宇宙論や、天体物理学の本を時々読みたくなります。なんでか、といえば、そういう本を読んでいる時に、すうっと足元が落ち込んでいくような、不思議な感覚にとらわれることがあるから。ものすごく広大な空間の中で、自分がコメツブよりももっと小さい存在になっていくような感覚。僕らのような存在は、宇宙の中で僕らしかいないの?という、漠然とした不安感。

宇宙に対する色んな研究や探査に、巨額の国家予算が投じられている根本的な要因の一つが、この漠然とした不安感にあるんじゃないか、という気がします。冥王星の向こうまで探査衛星飛ばしたって、一文の得にもなりゃしないけど、でも、ヴォイジャーが撮影してきた木星の写真や、カッシーニ土星の映像とか見ると、なんだかわくわくしてきてしまう。未知のものへの好奇心、ということだけじゃない。各種の新技術の実験場としての宇宙、という要素も、技術の進歩が早すぎて、むしろ後退している。色んな検査とか耐久実験とかやっているうちに、打ち上げる頃にはもう技術が陳腐化している、なんてことは最近ざらにあることなんだそうです。だとすれば、どうして人間はこんなに宇宙のことを知りたがるのか。

先日、図書館で借りてきた、池内 了「泡宇宙論」を読了。爆発と、それによる泡の発生、その泡同士がぶつかりあってさらに新たな爆発が生まれ、さらに新たな泡が生じる、ダイナミックな宇宙論。それが、「泡」というひどく日常的なキーワードで語られる。とても分かりやすく、かつ面白い本でした。

でも、こういう天体物理学の話を聞いていると、結局「本当のところは全然分からないんだなぁ」という思いがします。ちょっと前にNHKでやっていた、「アインシュタイン・ロマン」という番組、結構好きだったのです。あれも、結局のところ、「宇宙ってのはまぁよく分かりませんね」というのが結論だった気がする。太陽系の外に飛び出していったヴォイジャーが、「重力などの既存の物理学上の力では説明できない力」のために、想定していた速度よりも速度が遅くなっている、なんていうニュースを、少し前に聞いた気がします。そういう話を聞くと、なんとなくわくわくしてしまう。

暗い宇宙が、実は高温のガスで満たされており、新しい星が活発に誕生している場だったりする。静謐な印象のあった宇宙が、爆発を繰り返していたりする。自分が当たり前だと思っていたことがどんどん覆されていくわくわく感。ちょっとキワモノめくけど、マリ共和国のドゴン族、という種族が、「シリウス星系からやってきた神が我々に文明を与えた」という伝承と、最新天文学がやっと解明したシリウス星系に関する詳細な知識を持っていた、なんて話を聞いても、なんだかわくわくしてしまう。

宇宙や地学の領域では、1万年なんてのはつい最近のこと。10億年後には「人類は滅亡してますから、地球がどうなっていようが大丈夫です」なんて、濱田 隆士先生がにこやかにおっしゃるのを聞くと、時間的にも空間的にも、現代の自分が置かれている場所の小ささにくらくらする気分になります。

そう思っていたら、もう50年以上も前に、そういう「くらくらする気分」と、宇宙への渇望を見事な日本語にしていた人がいました。その有名な詩を掲げて、今日のところはおしまいにしましょうか。

 
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしているのか 僕は知らない
(或いはネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
 
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめあう
 
宇宙はどんどん膨らんでいく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
 
(谷川 俊太郎 「二十億光年の孤独」)