表現する場

自分が、オペラ、なんぞという非常に特殊な表現形態に関わっているせいでしょうか。いつも、上演会場の確保、というのが最大の問題になります。私の住んでいる調布市には、調布市民文化会館「たづくり」というとても綺麗なホールがあります。オペレッタの上演には最適の、500席くらいのキャパの素敵なホールで、一度でいいからここでオペレッタの上演をしたいなぁ、と思うのですが、抽選であたった試しがない。抽選の競争倍率がすごく高いのです。

こういう、公共ホールの抽選会、というのに出ると、東京という街の異様さ、というのを実感します。何が異様って、これだけ色んな団体があることのすごさ。合唱団、日本舞踊、大正琴の発表会、吹奏楽、バレエの発表会、ピアノの発表会、などなどなどなど。コンテンツの豊富さもそうですが、何よりも、それだけ、「自分を表現したい!」と思っている人たちの数が多いことに圧倒されます。コンテンツに悩んでいる地方の公共ホールに少し分けてあげたいよねぇ。

かくいう自分だって、アマチュアパフォーマーであることに変わりはない。自分を表現する場を選ぶ時には、やっぱり、安くて綺麗で使いやすくて、お客様のアクセスがよくて・・・と、色々条件をつけたくなる、みんな考えることは同じ。そうすると、自分の表現の場として適当な場所、というのは、意外と見つからなくて苦労する。それも多分、みんな同じ。結果として、条件を満たす素敵なホールに、抽選参加者が集中する。

公共ホールの運営方法について言いたいことは沢山ありますが、それは別の機会に。でもここでは、東京という街が、そういう「自己表現欲」のるつぼとなっている割に、適当な「表現する場」を見つけるのはとても難しい、ということだけ、述べるに留めましょう。「表現する場」がなかなか見つからない。悔しい思いをしている人たちは大勢いる。そういう人たちは、結局、自分で「表現する場」を作ることを思いつく。でも、東京という街は、不動産の取得・維持コストが異様に高い。結果として、作られる「表現する場」は、狭い面積や劣悪な条件の中で、最大限の妥協を強いられる。小劇場ムーブメント、というのは、そういう限定された「表現の場」を逆手に取った表現形態だったのかもしれない、と思います。まさしく、東京的な表現形態。

今度、仲間内で、コンサート付きの小さなパーティをやろうか、という話をしており、その会場を探して、明大前にある、「アートホール レミド」という場所を下見させてもらいました。これが本当に素敵なホール。作られた方ご自身が、ピアニスト、ということもあり、「こういうサロンでお友達を呼んで音楽会をやりたいなぁ」という、ご自身のご希望を隅々まで実現させた感じ。見事に統一された趣味のよさと、使い勝手のよさ。

もちろん、そういう場所ですから、採算度外視で、「この場所を大切に使ってくれる方々だけにお貸ししたい」とのこと。今度のパーティには娘も連れて行くつもりなのだけど、ほんとに素敵な場所だから、大事に、綺麗に使ってあげないとね。

表現したい、という欲求と、表現の場が見つからない、という不満。でもこれって、東京だけの異常な環境なんじゃないかなぁ、と思います。そういう異常な環境の中で、自分の納得できる場所を見つけるのは至難の業です。そういう意味で、会場との出会い、というのも、パフォーマンスにとってはとても大事なことなんですよね。