ヘッセ「デミアン」〜古典の魔力〜

ヘッセの「デミアン」という本は未読だったのですが、金子修介監督の秀作「1999年の夏休み」でその一節が引用されていたので、ずっと読みたかったのです。昨日読了。この本に思春期に出会わなかったのは不幸だったなぁ、というのが第一の感想。

以前、読書というのは、本との出会いで、タイミングが大事、ということをこの日記に書いたことがありました。思春期の頃には、型どおり、「車輪の下」しか読まなかったし、受験戦争を潜り抜けてきた屈折した少年にはそれなりにインパクトがあった。でも、「デミアン」の方がいいね。善と悪、性と愛の間で揺れ動き、もがきながら、「卵から生まれ出でようとする」一羽の鳥の物語。思春期に読んだら、それこそ1ヶ月くらい酔っ払った状態になったかもしれない。

こういう古典を読むと、このころの「小説」「書物」というメディアが持っていた影響力、というか、読者の精神を変革しようとするパワー、魔力のようなものに圧倒されます。特に西洋文学にそういう傾向があるのかもしれない。「小説」はエンターテイメントではなく、物語によって作家の社会的メッセージを発信するための手段。江戸戯作文学のハチャメチャなエンターテイメントとは対極にある政治性。現代において、これだけのパワーと魔力を持った「小説」というのには、中々出会えないですよね。TV・映画・ネット・ゲームその他、物語を語るメディアが多様化している中で、「小説」というメディアそのものの相対的な力が弱まっているし。

デミアン」という小説の持つ悪魔的な魔力が、その後のドイツのナチズムの思想とどこかでつながって見えてしまうのは、私の偏った見方かなぁ。キリスト教的善悪を超えて、自己の能力に覚醒した「カインの末裔」としての超人へと、人間は前進していく、というメッセージ。それって、ナチズム的選民思想紙一重じゃないか?この本が、第一次大戦後、敗戦の屈辱にまみれたドイツにおいて熱狂的に読まれた、という話を聞くと、どこかうそ寒い感じがしてしまう。

もちろん、それは歴史の不幸であって、作品そのものの素晴らしさを減ずるものではない。でもやっぱり西洋的な直線的歴史観の産物だよねぇ。そう考えてしまうこと自体、拠って立つべき「直線」を失ってしまった現代人の不幸なんだろうけど。現代はむしろ、「円環」をよしとする時代。とすれば、現代における「小説」のあり方は、その「円環」のありようを示すことなんでしょうか。なんか、知ったようなことを書いてるなぁ。ニーチェも読んでないくせに、偉そうなこと書くなよ。

しかし「デミアン」のもう一つの魅力、というか魔力は、通低音のように響いている同性愛嗜好。さすがヘッセだなぁ。デミアンとシンクレールの関係は、導き手とその弟子、という関係というよりも、もっと性愛的。ラストの幻想のキスシーンに至ってはほとんど耽美的。金子修介さんが「1999年の夏休み」に引用したのもうなづける。萩尾望都の作品にも確実に影響を及ぼしている感じがしますね。ドイツという国は、とにかく少年たちがみんな美しくて、成人女性は美しさよりも迫力が勝ってる感じになっちゃうもんだから、少年愛を法律で規制しないとエライことになるんだ、という話を聞いたことがあるんですけど、ほんとかしら。