「屍の聲」〜「イエ」への怨念〜

坂東眞砂子さんという作家は、定石通りに「死国」から読みました。いわゆる「モダン・ホラー」のブームが起こり、角川ホラー文庫が創刊された前後だったと思います。土着ホラーの金字塔。

諸星大二郎が好き、というくらいですから、土着ホラー、伝奇ホラー、というジャンルは大好き。でも、「死国」はそんなに楽しめなかった。爽快感がないんです。ホラーに爽快感を求めるなよ、という話もありますけど、クライマックスから結末に至る部分で、一種のカタルシスを感じるホラー小説は結構多いと思います。様々な謎が解決していくカタルシスであったり、不愉快な登場人物が当然の報いを受けるカタルシスであったり。効果的なショックシーンも、一種のカタルシスをもたらします。スティーブン・キングの「ミザリー」なんか、ラストのラストまでページをめくるのが怖くて怖くてたまらなかった。

その後、同じ作家の、「蟲」や、「狗神」を読むに至って、この人は、こういう不愉快なホラー小説を書く人なんだな、と納得。ものすごく怖いし、ものすごく面白いんだけど、爽快感のある小説ではない。読むときには、かなり不愉快な怖い思いをするぞ、という覚悟が必要。そういう作家。

昨日、短編集「屍の聲」を読了。独特の土着ホラーの世界を楽しむ。個人的には、最後に納められた「正月女」が最高傑作だと思いましたが、他の短編も、実に怖い。怖いんですが、不愉快。表題作「屍の聲」とかはそれほど不愉快ではないんですが、その他の短編、特に、「残り火」なんか、無茶苦茶不愉快です。

この不愉快さはどこから来るのかな、と思えば、やっぱり、「イエ」という因習によって押しつぶされた女性の怨念の深さ、救いようのなさから来ている気がする。さらに言えば、確かに昭和初期あたりまでの時代であれば、そうやって押しつぶされてしまう女性の側が一方的な弱者だったかもしれない。でも、現代社会にあって、いかに四国の田舎村だとしても、そうやって、「押しつぶされる女性」の側にだって、問題があるんじゃないの、という気になっちゃう。それが不愉快感を募らせるんです。

昔と違って今なら、「イエ」だの「因習」から逃げる道はあるはず。自分を押しつぶす「イエ」をひたすら呪い、怨むのなら、そういう「イエ」の中にぼんやり座っている自分自身に問題はないのかよ。逃げればいいじゃないか。

といいながら、恐らくは四国の田舎村、いや、四国に限らず、日本の田舎の村では、ぶつぶつと怨念をたぎらせながら、「イエ」の呪縛の中でぼんやりと座っている、あるいは呪縛の存在にすら気付いていない人々が一杯いるんだろうな。だからこそ、登場人物たちのそれぞれの怨念は、いやに湿度の高いねっとりとしたリアリズムに満ちている。でも、全然同情心が湧かない。だから不愉快。さらに、「イエ」の呪縛を象徴するような迷信の数々が、今も四国の田舎で信じられている実在の迷信だったりするから、余計にリアリズムと不愉快さをあおる。

「正月女」が傑作だと思うのは、そういう「イエ」の呪縛とは関係のない、女の性の呪縛が悲劇の根本にあるから。最後の一行の怖さときたら堪らん。ひ、引かんでくれ〜。