バレエ「火の鳥」〜バレエの象徴性〜

先日、偶然つけたシアターテレビジョンで、「火の鳥」をやっていました。ディアナ・ヴィシニョーワが火の鳥を演じた舞台。パリシャトレ座で、ニジンスキーが踊った舞台を、マリンスキー劇場バレエが再現した舞台だそうです。

ニジンスキー・ディアギレフの舞台をマリンスキー劇場バレエがやります、と言われたら、もう頭を下げて、「はい、あなたがスタンダードです、教科書でございます」って言うしかないよなぁ。そう思いながら、ディアナ・ヴィシニョーワの信じられないくらいに美しい火の鳥を見ていました。ストラヴィンスキーの「火の鳥」という曲は、大好きな曲の一つです。この楽曲との最初の出会いは、富田勲さんのシンセサイザー編曲でした。不幸な出会いですね。そういうなよ。その後、オーケストラ版を聴いて、全然こっちの方がいい、と感動。

その後、名前を失念したのですが、ある国内のバレエ団の舞台で、初めてバレエ舞台の「火の鳥」を見て、音楽の意味するところがやっと腑に落ちたんです。そういう意味では、自分では結構、「知っているつもり」の楽曲であり、物語でした。

でも、今回TVで見ていて、すごく不思議な物語だなぁ、と思ってしまった。最大の疑問は、

「魔王を倒すほどの力を持った火の鳥が、なぜ普通の人間である王子に捕らえられてしまうのか?」

という点です。さらに、

「魔王カスチェイの力の源である卵」

が意味するところとは?という疑問も湧いてきました。

そう思ってみると、この「火の鳥」という物語、非常に象徴的な物語に見えてくる。様々な解釈を可能にする、非常に奥の深い物語。手塚治虫がこの音楽に触発されて、あの代表作「火の鳥」を描き始めた、というのも分かる気がする。多分、もとになったロシア民話も含め、様々な解釈や分析が多くの専門家の手によってなされているでしょう。ここで私の浅薄な解釈を偉そうに並べる気はないですけど、上記の2つの疑問に対しては、なんとなく以下のような自分なりの答えで満足しています。

火の鳥は、王子に恋してしまうんです。そう思って見ると、火の鳥と王子のダンスは非常にエロティックなものですし、音楽もそうです。でも、火の鳥はあくまで自由な生き物だから、王子に捕らえられることを潔しとはしない。彼女の恋心は、王子を常に見守り、危機の時にはいつでも飛んで来るよ、という、黄金の羽に託された思いによって告げられる。

魔王カスチェイと火の鳥は、どうも同族では、という気がします。魔王の守っている黄金の木に、自在に飛んで来る火の鳥。そして、カスチェイの力の源が「卵」である、という所からして、どうもカスチェイも火の鳥も、同じ卵生生物では、と思わせる。つまり二人は兄弟なのじゃないだろうか。片方は火を、天を、自由を象徴するが、カスチェイは闇を、地を、束縛を象徴している。カスチェイは、自分達が生まれた卵に執着することで力を得るが、火の鳥は、その卵を捨てて自由な生き方を選ぶ。しかし、二人が同族・同根であることは変わらない。

これ以外にも多くの解釈が可能でしょう。そういう多元的な解釈を可能とするのは、やはり、「バレエ」という舞台表現の持っている象徴性によるのだろうな、と思います。言葉によって限定されていない、身体という表現手段によって、初めて表現できる「自由さ」。その自由さが生み出す多元的な意味世界。言葉を使えないことは、決して不自由なことではなく、体の表現を無限に活用することで、もっと自由な世界が表現できる、ということ。ヴィシニョーワの、指先まで火の鳥になりきった見事な表現を見ながら、そんなことを思いました。