「希望」ねぇ。

雑誌の書評で、「希望格差社会」という本のタイトルを見ました。将来に希望を持てる「勝ち組」と、希望の持てない「負け組」に社会が二分化している、という話のようです。かと思うと、いわゆる「ニート」と呼ばれる若者が増えている、という報道も聞きます。「自分の希望する職場、希望する生き方が見つからないなら、無理して仕事しなくてもいい」と、ひたすら無為に過ごす若者たち。親も社会もマスコミも、そういう若者達に、「いいんじゃないの、無理しなくて」とささやく。

キーワードは、「希望」という言葉。昔読んだ本で、パンドラの箱を開けたら、様々な疫病や災厄が飛び出してきて、箱の底に「希望」が残っていた、というギリシア神話を取り上げて、「実はその希望こそが、人間にとって最大の災厄なのかもしれない」と書いた本がありました。そこまで否定的にはならないにせよ、「希望」だの「夢」だのという言葉には、最近とみに胡散臭さを感じるようになりました。

なぜか、と言えば、2つの要素がある気がしています。一つは、「希望」とか、「将来の夢」というものが、将来ありうるかもしれない可能性、としかとらえられていないことが多いから。今現在、何をするべきか、という足元の自分の行動規定につながっていないことが多いから。以前この日記で、「洋画の買い付けとかの仕事したいんだけど、英語しゃべれないから」と言っている若者のセリフを聞いて、オッサン臭く激怒したことを書いたりしましたけど、万事がその調子。「将来xxになりたい」。なら、そのために、「現在yyをしなければならない」。その、現在の行動や、現在やらなければならない努力が、全然具体的にならない。

もちろん、中には、「xxになりたい」と思っても、家庭の経済力がそれを許さない、という環境に置かれている人もいるでしょう。「希望格差社会」という言葉には、そもそも希望が持てない、という意味で、「負け組」に属してしまう人々の問題も指摘されていると思います。でも、経済力にはそれなりに恵まれていながら、ただ希望や夢だけを描き続けて、足元の努力をしようとしない人たちって、結構多いんじゃないのかなぁ。

もう一つの要素は、多くの若者が持つ「xxになりたい」という夢自体が、かなり実現困難な、特殊な夢が多くなっている気がすること。昔だったら、「安定した生活をしたい」というのも、十分立派な夢で、そのために必死に努力しないといけなかった。いまや、「安定した生活」「ある程度の生活水準」というのは達成されてしまっていて、さほど努力も必要ないんですね。夢自体のインフレ化、というか。だれもかれもが、「歌手になりたい」「アイドルになりたい」「作家になりたい」など、相当特殊な、選ばれた才能だけに許される職業を夢見ている。その夢のために必死に努力しても、なかなか簡単にかなうものじゃない。そして夢破れると、途端に、仕事をする目的や意思を失ってしまう。

キーワードは、「地道」ってことかもなぁ。地道な努力。地道に、自分の足元と、自分自身を見つめること。いかに自分の才能や可能性が限定されていたとしても、それは「夢を失う」ということじゃない。普通のサラリーマンや、普通の主婦、と言われる人々の日常にだって、夢もあれば希望もある。地味に見える仕事でも、与えられた仕事をカンペキに、100%こなした上に、そこで自分らしさを表現する、というのは、とても難しいこと。それをこなすことは、十分に達成感があり、きちんと地道に努力しないと実現できない、素晴らしいことなんです。どんな仕事にだって夢はあるし希望はある。仕事をしながらだって、私みたいに、舞台という夢のような時間を持つことだってできる。充実した生き方、充実した時間をすごしたい、というのが「夢」や「希望」に共通しているものだとするならば、地道に生きていく中でも、いくらでもそんな時間はあるし、ニートなんかやってるよりもよっぽど生きがいがあると思うんだけどねぇ・・・と年寄り臭く愚痴ってみる。