動かないこと

週末、ガレリア座の練習。主役級のキャストがインフルエンザなどでばたばたとお休みになってしまい、通し稽古としては今ひとつ。ただ、個人的には、その分、自分のお芝居の雑味を取ったり、細かい段取りや所作の確認、歌のフレーズの悪い癖などを確認することができた気がしています。言ってみれば、余分な枝葉を刈り込む作業ですね。

団員の方々と、演技プランについて相談していると、いつも思うこと。舞台の上で演技する、ということを、「動くこと」だと皆さん思いがちだなぁ、ということ。かくいう私もそうですが、一つの演技に対して、顔の向きを左右に振る、腕を上げる、手の指を曲げる、伸ばす、歩く、重心を変える、などといった細かな動作が、やたらとまとわりつきやすいもの。「ごきげんよう」と挨拶するだけで、「相手を見る」「招くように腕を上げる」「周りの人に目配せする」「近づく」「腕を伸ばし、胸に当てる」「頭を軽く下げる」、と、ざっと分類しただけで6つの動きをしてしまう。その6つの動きのそれぞれに、ごちゃごちゃとした余分な動きがくっついて、結果的に、6×n個の動きが、ただ「ごきげんよう」と挨拶する行為だけにまとわりついてしまうのです。それが、「ごきげんようと挨拶をしている」ということを、お客様に伝えるのを邪魔してしまう。落書きに覆い尽くされた道路標識みたいに。

これを極力そぎ落とす。落書きを一つ一つ消していくのです。6個の動きのそれぞれの中にあるn個の雑味を極力削る。さらに、6個も必要なのか?と自分に問いかけてみる。「招くように腕を上げる」動きは必要かい?「周りの人に目配せする」なんて動きもいらないんじゃないか?そこで、「近づく」という段取りは必要かい?そういう作業をすることによって、「ごきげんよう」という挨拶の演技が、必要最小限の動作の組み合わせと、「動かない」時間によって構成されるようになります。「ごきげんようと挨拶をしている」という動きを極力単純化することで、メッセージを明確にする作業。

「演技する」ということは、「動くこと」ではない。「いかに動かないか」ということと、「いかに必要最小限に動くか」ということ。そして、「動かない」ということは、決して何もしない、ということではない。たとえば、「怒っている」という芝居を、全く動かないでやってごらん、という話をすると、顔の表情、体の姿勢、向き、さまざまな所を吟味し、鏡に映してチェックする必要があります。結果、体中の筋肉が、その姿勢を保つために、常に緊張している必要がある。何もせず脱力しているのではなくて、常にどこかの筋肉が緊張している状態で、「動かない」。

そう考えると、能などの所作のシンプルな美しさというのは、体の「動き」という舞台上の身体表現の一つの究極の姿なんでしょうね。ここでこう動く、こう動くしかない。そのほかの場所では絶対に動かない。

舞台表現の勉強をきちんとした人間ではないので、浅薄な舞台表現論を振り回すのはこれくらいにしておきましょう。とにかく今は、自分の中にある雑味をそぎ落としていく。その作業を本番までに徹底的にやらなければ。まだまだ余計な雑味が多すぎる。