「美少女戦士セーラームーン」〜少女たちが戦う理由〜

40歳も近い男がセーラームーンを語るなよ。東映チャンネルで集中放送が始まったからって、見るなよ。それも実写版だよ。まぁそう言うなよ。娘が好きなんだよ。誰に言い訳してんだ。わっはっは。

娘が好きだ、というのを言い訳にしながら、何が楽しみで見てるか、と言えば、可愛い女の子たちがこれでもかとばかりに出てくる、というのが最大の理由だったりするわけですけどね。好みとしてはセーラーマーズ(北川景子)がやっぱり一番いいけど、セーラーマーキュリー浜千咲)もいいなぁ、なんてことを40歳も近い男が言うなっていうの。すみません。しかしセーラージュピター安座間美優)は無茶苦茶スタイルがいいなぁ。女房はそんな私を茫然と見つめています。そりゃ茫然とするしかないわな。娘は喜んで見てるぞ。まだ言い訳するかね。

戦闘シーンの稚拙なアクションだの、役者さんたちの大根芝居(といっても、やっぱり最近の若いアイドルさんたちはそれなりに上手な子もいる)、ヘタな歌(これはほんとにヘタだなぁ)、わけのわからん敵方キャラの造型(レインボー造型の確信犯!仮面ノリダーなみに楽しんでる)だの、まぁ突っ込み所は満載。でも、見ていていくつか、なるほどなぁ、と思うポイントがあったりする。まだ放送は始まったばっかりなので、全編を見ると(見る気かよ!)、また感想は変わってくるのかもしれません。でも、最初の数話を見て、マニアックに思ったことをいくつか。

1つめは、これって、東映が作りつづけてきた、女戦士ものの系譜に連なるものなんだ、ということ。特撮ドラマ、というジャンルで語られるのも正解。あるいは原作のマンガ・アニメからいわゆる「セーラームーンミュージカル」につながる流れの先に、このドラマがある、という位置づけも確かにその通り。でもこれは、「花のあすか組」「スケバン刑事」から、さらには「女囚さそり」シリーズに連なる、東映の女戦士ものの末裔、というポジションでとらえることも可能。これらの女戦士もののシリーズに、「魔法少女ちゅうかなぱいぱい」(さすがにこれは見てなかったぞ)などの特撮美少女ものの系譜が合流すれば、「セーラームーン」が出てくるのはある意味必然。「さすが東映」というわけです。言ってみれば、お家芸。もっと早くにドラマ化しなかったのが不思議なくらいですね。

2つめは、そうやって、過去の女戦士もののシリーズと並べてみる、特に、「スケバン刑事」と並べてみた時に、くっきり浮かび上がる「父性の不在」です。これは、「花のあすか組」でも既に現れていた傾向だと思うし、多分既に、誰かが指摘していることでしょうけど、まぁ敢えて書いてみる。

比較のために、南野陽子出世作になった「スケバン刑事Ⅱ」と比べてみます。麻宮サキを名乗るスケバン刑事の周りに、ビー玉のお京や雪乃が加わり、青狼会という全国組織と戦う、という構図。女の子のチームで悪と戦う、という構図は共通なのですが、そこには、サキを見守る西脇刑事という「父性」が控えており、さらに、サキ自身の出生の秘密を追うドラマ自体が、サキの父親探しのドラマになっている。また、戦う相手の「鎌倉の老人」という絶対的な悪も、男性。(こんなに詳しく書いちゃうと、おまえ、「スケバン刑事Ⅱ」も見てたな!と突っ込まれるな。そうです。見てました。橋本以蔵の脚本集まで買っちゃいました。すみません。先に謝ります)

つまり、スケバン刑事、という作品は、男性原理に対する少女たちの戦いと、それを助ける父親、という構図を持っていた。それに比べて、「花のあすか組」では、既に父親的なもの、男性的なものは影をひそめてしまう。絶対的な悪は、「ひばり様」という美少女に牛耳られている。そこに男性・父性が入り込む余地がない。セーラームーンでは、男性は「タキシード仮面」という記号になって現れる。それは、極端にデフォルメ化された理想の男性像ではあるが、決して「父性」ではない。

つまり、父親、という存在は、戦う相手でもなく、主人公を助ける相手でもなく、また、「父の敵を討つ」なんていう戦いの理由にすらならない。なんて影が薄くなっちゃったんでしょう。堅牢に構築された現代社会の中で、ただ歯車の一つとして回っている父親達は、少女たちにとって、もうドラマの核にはなりえない存在なんですね。父親の一人として、頑張らねば。

3つめ、これが一番大きかったのだけど、少女たちが戦う理由が、「友情」、あるいは、「自分のアイデンティティの確立」という所にあること。セーラームーンの仲間たちは、「自分の場所をずっと探していた、それがここなんだ」と、戦いに加わる。「あなたと一緒に戦いたい」というセーラーマーキュリーのセリフは、戦う理由が、地球の平和だの、画一的な組織に飲み込まれまいとする抵抗運動だのではなく、純粋に、「友情」であり、その友情によって自己を確立しようとする欲求であることを物語ります。でも、これって怖いなぁ、と思う。友情というものにそんなに寄りかかっちゃっていいものか?

最近、自分の身近にあった事例ですけど、小学校6年生の女の子で、4人くらいの友達の中で村八分に合ってしまって、登校拒否になったケースがありました。友情への依存度が高すぎるから、これが崩れてしまうと精神的な支えが全部失われてしまうんですね。友情というのは、家族という軸から、社会という軸の中に活動を移していく上で、非常に大事なもの。でも、アイデンティティまでもそこに依存してしまうのは如何なものなのかなぁ。

セーラームーン」に出てくる、月野うさぎ以外の少女たちは、みんな、家庭に問題を抱えているように見えます。もちろん、ドラマですから、友情が全て、という形にはならない。それぞれが、きちんと自分のアイデンティティを確立しており、友情はそれを支えてくれる力、として位置付けられている。でも、現実はそんなに強い子ばっかりじゃないぞ。

こういう子供向け番組に現れる、対立と戦いの構図を社会学的に分析していくことで、その時点での社会の持っている問題が炙り出されてくる。そういうアプローチはあちこちで行われているでしょうけど、「セーラームーン」を見ながら、今の子どもたちの持っている精神的な危うさについて、少し考えてしまいました。それにしても、この異様なコスプレ・ドラマの中に違和感なくはまっている杉本彩は、やっぱりタダモノではない。