ゼフィレッリ自伝

新潟の地震のニュースに触れるたびに、なんだか胸がつまってしまって困ります。同じようなニュースに接しても、昔は結構他人事だったと思うんです。阪神大震災の記憶と、自分に子供が出来たこと、あとは、やっぱり年を取ったんでしょうね。昨日の、2歳の男の子が生存していたニュースを、会社でネットで見たときには、オフィスの中だというのに涙が出てきてしまって困りました。とにかく余震が早く収まらんかなぁ。

さて、今日は、昨日読み終えた「ゼフィレッリ自伝」のことを書こうか、と思います。「永遠のマリア・カラス」を見て、ゼフィレッリという人自身にもかなり興味が湧いたところに、非常にタイミングよく、この本を下さった方がいて、大感謝と共に読み進めました。文庫本にして4センチくらいの太さのあるかなりの分量の本なのですが、とにかく面白かった。

彼の人生そのものが、非常にドラマティックである、というのもありますが、やはり、自分が名前や演奏、演技、作品でしか知らない数々のスターたちの生の姿が描写される、そこがすごく面白かった。ビスコンティ、セラフィン、アンナ・マニャーニ、カラス、バーンスタイン、ストラータス、オリビア・ハッセーローレンス・オリヴィエドミンゴ、等など、数々のスターたちとの交遊録としても面白いし、彼らが作り上げた作品を少しでも知っている分、余計に楽しめる。

それでいて、ゼフィレッリの描写には、毒がないんです。実に素直に、これらの人々に対して彼が感じた印象を淡々と記述していく。賞賛もあるし、感動もある一方で、恨み言や非難だってある。でも、決して後味が悪くないんです。中傷になっていない。才能あふれる人々への愛情が根底にあるからでしょうか。どの人々も活き活きと、リアルに描かれているのに、誰一人として悪人扱いされていない。先日この日記にも書いた、浅薄な作曲家の偉そうな本とは大違い。

不幸な少年時代を送りながらも、彼はやっぱり愛情に溢れた、善意に満ちたイタリア人なんだなぁ、と思いました。その一方で、この本を下さった方も言っていたのですが、自分自身も、他者についても、非常に客観的な目で見つめることが出来る人。生死を彷徨うような交通事故の後、宗教的になった自分自身についても、その宗教観を人に押し付けるような押し付けがましさもなく、淡々と描写している。自分も含めた世界全体を、愛情を持って許容し、客観的に見つめることができる。これで優れた演出家にならないはずはない。

舞台演出家であり、映画監督でもある人物の自伝、となると、どうしても、その創作活動における基本哲学、というか、舞台論、映画論、のようなものが展開されることを期待しますけど、そういう文章はほとんどありません。「かくあるべきである」といった議論はほとんどないんです。「自分はこの作品をこう作りたいと思った」「この作品を作るにあたって、自分はこういうアプローチで進めた」という、個別の作品に対する自分の解釈を、淡々とルポルタージュする。具体的だから、余計に面白いんです。しかも、そういう自分の解釈についても、「時代とマッチしただけ」と言い切る。決して、「オレがスタンダードだ」みたいな権威主義に陥らない。常に謙虚。

でも、彼の映画や、演出された舞台などを見ると、それが、彼のエンターテイメントの限界なのかもしれない、と、いささか僭越ながら思ってしまう。彼のアプローチは、原典の持っているエンターテイメント性の再発見、というのが基本。楽しいお芝居は徹底的に楽しく。豪華な舞台は徹底的に豪華に。シンプルであるべき場面は限りなくシンプルに。そこには、職人的な名人技はあっても、強烈な作家性はない。毒がない、ということはそういうこと。

でも楽しめる。しかも、ハリウッド的な浅薄なエンターテイメントではない。それは、ビスコンティ仕込みの徹底した原典主義、徹底的な探求主義の賜物だと思えます。表現する対象を単純化して捉えるのではなくて、対象の多層性、奥の奥にある真実まで、じっくり煮詰めるやり方。非常にルボルタージュ的なリアリズム。そして常に流れるイタリア的、イギリス的美意識。強烈なエゴイズムの発現としての表現ではなく、美しいもの、優れたものをひたすら忠実に観客に伝えようとする謙虚な姿勢。「永遠のマリア・カラス」でも、「ロミオとジュリエット」でも共通したアプローチ。オレを見て、ではなくて、この素晴らしい作品を、この素晴らしい人を見て!というアプローチ。

ビスコンティゼフィレッリの最大の違いは、この「作家性」ということかな、という気がします。ビスコンティの映画が、常に彼の内面を表象するものだったのに対して、ゼフィレッリの映画や舞台は、あくまで表現される対象が主役にあり、彼自身の内面はその対象の影に隠れている。

そしてまた、少し前の日記に書いた、「音楽をやる、ということ」の主題に帰ってくるのです。その音楽が好きだから、音楽をやる。ゼフィレッリがやりたいのは、素晴らしい音楽を、オペラを、観客に伝えたい、ということ。自分を表現することじゃない。そういう意味でも、彼は最高の「音楽家」なのかもしれない。そう思いました。

一つ、おお、と思ったこと。ゼフィレッリとカラスが、カラスの最後のオペラの舞台となった「トスカ」の演出について議論している場面。ゼフィレッリはカラスに、「トスカはスカルピアと寝たいと思ってしまうんだ」と説きます。そして、「スカルピアは、(当時カラスが死ぬほど恋焦がれていた)オナシスなんだよ」と示唆します。「破滅への予感をみなぎらせながら、それだけ強烈な魅力を撒き散らしている男なんだ。そしてトスカは、彼にどうしようもなく惹かれてしまうんだ」と。

おお、これって、かなり前のこの日記に書いた、「トスカ」に対するうちの女房の解釈そのものじゃないですか。女房の解釈を聞いた時には、「何言ってるのあんた」と思ったけど、なんとゼフィレッリの解釈と同じとは。いや、参りました。降参。