「蒸し暑い」音

昨夜、偶然見ていたNHK総合の「英語でしゃべらナイト」に、佐渡裕さんが出ていました。一瞬ですが、高校の頃すごく流行ったマンハッタントランスファーも出ていたので、思わず見てしまった。

佐渡さんとバーンスタインの濃密な師弟関係の中の各種のエピソードは、以前から色々聞いていたし、それなりに興味深かったのですが、面白いなぁ、と思ったのは、佐渡さんの以下のような発言です。
 

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オーケストラを指導しているときに、「そこはもっと長く」とか「短く」という指示だと、単に技術的な指示になる。でも、「そこの音はもっとHumid(蒸し暑い)な音にしてくれ」とか、「そこはもっとBright(明るい)な音に」とか、そういう表現をした方が、面白い音になる。

蒸し暑い、という単語で、みんなが同じことをイメージするわけじゃない。それが面白い。梅雨時のようなじめーっとしたイメージを持つ人もいれば、サウナのような場所をイメージする人もいる。汗がじわっと出てくる感じをイメージする人もいる。みんなが同じイメージを共有するのじゃなくて、そういう色んなイメージが混じり合ってくる瞬間が面白い。

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・・・この話を聞いたとき、うちの女房が聞いてきた、大久保混声合唱団の辻志朗先生の言葉を思い出しました。
 

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あるフレーズの音を、悲しい音にしたい、と思ったからといって、団員全員が、同じ悲しい気持ちになる必要なんかない。ある人は楽しい、明るい気分になっていてもいいし、ある人はすごく悲しい気分になっていてもいい。僕にとっては、出てきた音が、自分が欲しい音でさえあればいいんだ。

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マチュア団体の陥りやすい罠として、音楽を一緒に作っていくことが、全ての感情、全てのイメージを共有化すること、と勘違いすることがあると思います。確かに、100人、1000人の人々が一斉に同じ表情で、同じ声の色で、同じように泣き喚いたとしたら、これはすごい光景だし、圧倒はされるでしょう。でもそれって、全く単色に塗りつぶされた巨大な壁が立っているような圧倒感はあっても、芸術とはいえない。北朝鮮マスゲームが、圧倒的なパフォーマンスでありながら、決して芸術的ではないのと同じ。

一つの抽象的な言葉から、各人が持つ様々なイメージ。そのイメージは単一である必要はないし、人によって濃淡や、色合いの違いがあっていい。そういう微妙な色合いの違いをどうブレンドするか、というのが指揮者の技なんですね。

奇しくも、「英語でしゃべらナイト」に出てきたマンハッタントランスファーのメンバーが、「大事なのは、それぞれの個性を思い切りぶつけ合いながら、それらをうまく『ブレンド』すること」と言っていました。和音を作る、という作業を、ハーモニー、と言わず、ブレンド、という言葉を使っていたのがとても印象的だった。

歌い手からすれば、全員が同じ感情を共有することなんて、実際上不可能だし、どうしても同じ気持ちになろうとすれば、何らかの「トランス」状態が必要になります。それって、色んな意味で危険なこと。一つには、まさしく北朝鮮のような、全体主義的な「洗脳」作業のような状況に陥ってしまう。そこに個々の判断や、客観的な分析などは差し挟まれる余地がありません。判断も分析も、外にいる偉大な指導者から与えられる。日本人はそういう環境が好きですが、音楽的には決して誉められた状態じゃない。

二つ目の危険性は、単純に、いい声が出なくなる、ということです。トランス状態になってしまうと、自分自身の状態を客観的に見る視線が消えてしまう。フォームを維持する、とか、外から、観客の目から見てどうか、といった、表現において必須である「第三者の目」を失ってしまう。これは自分が表現者であることを放棄すること。

さらに言えば、表現者というのは、芸術家であると同時に技術者=職人でないといけない。例えば佐渡さんが「Humid」という単語を口にしたときに、自分なりの「Humid」なイメージを作る所は芸術家。そのイメージを音に変える作業においては職人。

先日、蔵こんでご一緒したS弁護士から聞いた話ですが、あるオーケストラのベテランティンパニー奏者に、演奏の極意を聞いたところ、恥ずかしそうに、手元にもったメモを見せてくれたそうです。見ると、「こういう音の時にはこういうバチを使う」という一覧表がびっしりと書かれていたそうな。これぞ職人。

指導者が求めている音をいかに作るか。そのための引き出しを一杯持っておく。バチの種類を増やしておく。そのためには、自分の感情すら、コントロールする。声を出すために必要な「バチ」として、自分の感情を使う。指揮者が、「悲しい音」といった時に、自分はどんな感情であれば「悲しい音」が出るのか。その判断も、制御も、全て、歌い手の側に委ねられている。外から与えられるものじゃない。

それが音楽。それが芸術。ううむ。頭じゃ分かってるんだけどね。ううむ。