座頭市を見て思ったこと

昨日は朝起きた時から頭がガンガン痛くて、布団から出ることもできず、結局会社を休んでしましました。ということで日記も一日お休み。時々こういう偏頭痛が出るんです。一度頭の中覗いてもらった方がいいかなぁ。

さて、今日は、先日TVで見てから、感想文を書こう書こうと思っていた、北野武監督の「座頭市」について、ちょっと書きたいと思います。

北野監督の映画はそれなりにチェックしています。「その男、凶暴につき」「あの夏、いちばん静かな海」「ソナチネ」「菊次郎の夏」を見ました。個人的には、「菊次郎の夏」が一番好きだったりします。でも、好きな監督か、といえば、あんまり好きな監督ではない。誰かが言っていたのですが、北野さん自身に自殺願望のようなものがあって、自殺する代わりに自分が死ぬ映画をひたすら撮っている、という話がありました。どこかで、そういう病的な香りがする。彼のTV番組や、ギャグを聴いていても、何かそういう薄ら寒い心象風景が見えてしまう。

あの夏、いちばん静かな海」や、「菊次郎の夏」で見られた、弱者への優しい視線、というのも、傷ついた犬がなめあうような、不思議な寒々しさがあります。そういう荒廃した精神世界が、この豊かな日本でここまで高く評価されること自体に、この日本の精神世界の貧しさを感じてしまうのは行き過ぎかしらん。「座頭市」でも、両親を惨殺されて旅芸人に身を落とす姉弟の描写に、同じような傷のなめあいのような感覚がありました。「菊次郎の夏」くらいにからっと明るくなると、その女々しさみたいな部分が緩和されるのだけど、時代劇になるとなんともウェットで惨めな匂いが強くなってしまうんだなぁ。もちろん、壮快感さえ漂う徹底した殺陣、時折挿入されるギャグシーンと、何よりも、鈴木慶一さんの作り出すリズム感のおかげで、そのウェット感はかなり緩和されているんですけどね。

ただ、座頭市の問題点は、多分そういう凄惨さではない。そういう寒々した部分というのはむしろ後退している。だからこそ、たけし映画らしくない、とも評されるのでしょうが。問題点は、むしろ、代わって表に出てきたものにある。単純に、「話がつまらん」ということです。あら、身も蓋もない言い方しちゃった。

映画らしい映画になった、という部分は評価できるのだけど、全体の話がやけに薄っぺらくてつまらない。娯楽映画なんだからいいじゃん、とは言えると思うんだけど、それにしては、どんでん返しの伏線が役者の声でバレバレになっている、というのは如何なもんかなぁ。もともと、たけし映画、というのは、非常にシンプルな物語を、その語り口の鋭さで見せていくのが特徴なのだけど、その物語性を中途半端に押し出した途端に、物語の浅薄さが際立ってしまった。脚本は人に書いてもらった方がよかったんじゃないのかなぁ。

語り口、という点について言うと、座頭市においては、浅草レビューに対する非常に強い愛着とオマージュが捧げられている気がします。「菊次郎の夏」でも、少しそういう匂いがしたのですが、今回はそれが前面に出ている。話題になっているタップシーンにも、浅草大道芸の命脈に連なる同じ香りがする。要するに、「芸術」ではない、「芸」の世界ですね。色んなところに散りばめられたお座敷芸の数々、殺陣、そして群舞に至るまで、たけしさんの出身地である浅草への愛着が強烈に出ている気がしました。

黒澤映画へのオマージュ、ということが言われることも多いし、確かに、ラストのタップダンスを見て、「隠し砦の三悪人」の火祭りの群舞や、「酔いどれ天使」のパブの「ジャングル・ブギ」のシーンなどを思い起こすこともできます。でもそれはむしろ逆。日本映画自体が、歌舞伎の舞台映像から出発し、途中でエノケンなどの大道芸を取り込んで発達したように、もともと日本映画自体が、浅草大道芸のような大衆芸能を映像化することで発展してきたのです。それが、次第に、自然主義的な、俳優の「芸」を後退させ、むしろ人間性を前面に押し出すアプローチが強くなった。それと同時に、映画産業自体が衰退していったのは皮肉ですが、同様に、大衆芸能自体も衰退していった。

たけし映画の従来の路線は、俳優の個性を極力排して、極端なまでに「何もしない」役者たちを映像化し、自らの作家性を強調することで成り立っていたはず。つまり、「自然主義的」アプローチの究極の形だったはずです。それが、娯楽映画、という枠を与えられたとき、浅草大道芸にその基盤を求めた、というのは、実は日本映画の原点への回帰、というアプローチに他ならなかった。そんなことを考えて、いやぁ、面白いなぁ、と思って見ていました。

しかし、最近の映画を見ていると、むしろ、俳優の「芸」に着目し、それを磨くようなアプローチが多いですね。ある意味、原点回帰、という気がします。ヘンな話、「ウォーターボーイズ」の俳優たちの泳ぎ、「スウィングガールズ」の女の子たちの演奏、少し前の、「シャルウィーダンス」のダンスシーンや、「シコふんじゃった」の相撲シーンなど、役者が磨いた「芸」を見せることで成り立っている映画が、最近結構受けている気がする。それって、かつて阪妻のチャンバラシーンや、若大将のギターに人々が興奮したのと同じ文脈につながらないか。素人芸ばっかり見せられてうんざりしてきた自分としては、なんとなく嬉しい傾向だと思います。