ナタリー・デセイ オペラアリアの夕べ

全身が舞台の中央にきゅうっと吸い込まれていく。脳みそも心臓も、全身の血液がきゅるるるうぅっと舞台の一点に吸い上げられていくみたい。体がカチンカチンに硬くなって、息もつけない。もうこれ以上続けられたら、窒息する。窒息しなくても、多分脳の血管が何本か切れる。でも気持ちいい。心地よい。だからもっと続けてほしい。もっともっと続けて欲しいんだけど、これ以上続けられたら、死ぬ。し、死ぬぅぅぅぅぉぉぉ・・・

・・・という経験を、昨夜してまいりました。ああ疲れた。ナタリー・デセイのリサイタルです。オペラシティのコンサートホール。東フィルに、ルイ・ラングレ指揮、という布陣でした。演奏会の途中で、あまりの心地よさに死にそうになる、というのは、ほんとに久しぶりの経験。グルベローヴァが歌った、シュターツオーパの「ナクソス島のアリアドネ」以来かもしれん。

ナタリー・デセイさん、という方を最初に認識したのは、ガレリア座で「天国と地獄」をやったときでした。推奨CD・映像ということで入手した、ミンコフスキー指揮、リヨン劇場の「天国と地獄」で、とんでもない声と演技でぎゃんぎゃん飛び跳ねていたお姿を拝見・拝聴。ソファーで飛び跳ねながら超高音でコロコロ歌っている姿を見て、これは人間ではない、とまず規定。鳥ですね。それもわりと熱帯系の極彩色できゃんきゃん鳴くやつ。ホテルのバスルームに入ったら人間の皮を脱いで、羽根づくろいするんだ。ひょっとしたら機織りとかしておるかもしれん。熱帯の鳥は機織りしないだろう。そうですね。

次に、スカラ座オランピアの映像を見て、また度肝を抜かれた。妊娠中ということで、少しお腹がぽっちゃりしているのに、あんな高い声出しちゃって、生まれたらどうするんだ。

でも、その歌と演技を見たときに、ひょっとしてこの人は、ただの鳥じゃないのかも、と思いました。ただのテクニシャンではない。歌も演技も器用にこなす、というレベルではない。器械人形のオランピアと、魔法のメガネを通して見える妖艶な美少女のオランピアの演技のギャップ。しなやかで柔らかな身のこなし。完璧なブレスコントロール。音楽と演技が見事に調和した、まさしく、舞台の「華」。

このデセイさんを生で見たい。そういう気持ちがずっと募っていただけに、生のお姿が舞台に現れただけで、なんだか感激してしまう。でも、舞台に出てきたときには、普通のフランスのお姉さんなんです。第一印象は、とにかく、「ちっこい」。指揮者のラングレさんがわりと大柄な方だったので余計に、小柄で華奢に見える。露出の高いドレスのせいもあって、なんだか南フランスあたりのリゾートでのんびり過ごしている美人マダム、という感じです。肩から腕の筋肉がすごく発達していて、毎日ジム通いは欠かしてないぞ、みたいな。「天国と地獄」の時もそうだったんですが、お辞儀が色っぽくないんだよね。高校生のお辞儀みたいに、「ぺこ」っという感じでお辞儀をする。全然プリマっぽくない。そして、少しうつむきがちになったところで、前奏が始まる。

この前奏の間に、フランス人マダムが、一気にマノンになるのです。一気にオフェーリアになるのです。顔を上げて、あの大きな瞳が宙を見上げた途端、会場全体がオペラの舞台になるのです。このオーラ、この求心力はなんだ。さっきまでの美人マダムはどこに行った。舞台にいるのは、若くして自分の運命を悟ってしまった薄幸の女。恋人に捨てられて荒野をさまよう美少女。ルチアの狂乱の場では、本当に手が血にまみれているような、そんな幻影さえ見える。そして、そのオーラを生み出しているのは、決して、いわゆる「演技力」ではないのです。音楽なのです。「音楽力」というかなんというか。ああもうなんていったらいいんだ。

デセイのすごさは、高音にあるのではない、と思っています。もっとすごい高音を出すソプラノはいると思う。デセイの歌唱の最もすごいところは、中低音域のパッセージで全く響きがぶれないところ。レチタティーボの部分の語り口の見事さ、美しさ、音楽性の高さ。そして、それを支えているのは、完璧といえるブレスコントロールなんです。

さらにいえば、完全に楽器に「改造」された肉体の素晴らしさ。高校生のお辞儀のあと、歌いだすまでの間、時々、腕を後ろに組むんです。次の瞬間、腕の付け根の場所が変わったように見える。いままで肩から生えていた腕が、背中から生えているみたいに見える。何が違うか、といえば、肩甲骨です。肩甲骨がみごとに「閉じて」いる。背筋がすごい力で後ろに引っ張られて、胸がぐおん、と広がる。その状態が常に保たれ、下半身はゆるぎない。歌うために完成された体。

それでいながら、儚い。か弱い。狂乱する少女を演じる時の、あのはかなさはなんだ。強靭な肉体で完璧にコントロールされたブレスと響き。そこから流れ出るピアニッシモの儚さが、抱きしめたくなるような、壊れそうな美少女の姿を形作る。これを「演技力」といってはいけない。音楽力であり、その音楽の力を生み出す、肉体の力なんです。やっぱり、舞台人としての肉体っていうのはあるんだなぁ。

厳しいことを言えば、これだけ突出した舞台人を支えるには、東フィルがちょっと弱かったですね。歌に寄り添いきれず、時々、デセイさんの歌唱の足を引っ張っているような箇所があったのは残念。冒頭のカルメンではかなり頑張っていたけど、ラングレさんのドライブについていけてない。途中のパヴァーヌは、冒頭のホルンの音があまりに音楽性がなく、かなり興ざめ。あれじゃぁ、先日の大久保混声の演奏会の新交響楽団の方がよっぽどいい音だぞ。曲目の変更があったりしたので、準備不足、というのもあるかもしれませんし、デセイさんの歌でかちかちになった緊張感をほぐすには、適当な幕間音楽だったのかもしれないですが・・・デセイさんと同じ舞台に上がるのなら、もうちょっと頑張ってほしかったなぁ。一流には一流で対峙してほしかったです。といっても、デセイさんが一流すぎるんだから、無理な注文なのかなぁ。

アンコールでは、ロミオとジュリエット夢遊病の女、ボエームのムゼッタのアリア(じゃなくて、あれはアリエッタか?)と、ラクメの4曲。とにかく拍手がなりやまず、本当はムゼッタで終わりだったようなのですが、デセイさん自身が、「もう1曲やろう」という感じで、指揮者を引っ張ってきて、最後のラクメを演奏してくれました。1曲1曲のバラエティもさることながら、ムゼッタの小粋さには、ほんとに参りました。なんというコケットさ、フランスの粋。もうほとんどアイドル歌手のコンサート。

多分、テクニック的にいえば、グルベローヴァの方がすごいのかもしれない。さっきも書いたけど、もっと美しい高音を出せるコロラトゥーラもいる。でも、これだけ、音楽を全身で表現できる表現者、これだけ、「華」のあるプリマは、やっぱり稀有の存在でしょう。

プリマの「華」。その頂点にいるデセイの世界に、どっぷりと浸ることができました。ただの熱帯系の鳥じゃない。熱帯系の鳥にも、白鳥にも、うぐいすにも、ひばりにも、あるいは火の鳥にさえ変貌できる人。でも、アンコールを終えて舞台袖に消えていった姿は、本当に普通の、フランス人マダムでした。いいなぁ。舞台って、ほんとにいいなぁ。