芸術としてのスポーツ

いよいよ明日、大船渡へ出発です。今年は、親子で旅行するたびに、台風と一緒に移動しているような気がするなぁ。今度もまた台風だよ。でも、21日には通過した後みたいなので、一安心。相変わらず気管支炎の状態はよくありませんが、本番になれば言い訳は通用しない。なんとか、声帯に無理をかけずに、細心の注意を払って歌いたいと思います。

さて、今日は、巷で大騒ぎしているオリンピックの話。

大騒ぎする価値のある日本選手の大活躍、素晴らしいですね。特に体操ニッポンの団体金メダルには感動しました。長野オリンピックの団体ジャンプの時と共通するワクワク感。

以前、「スポーツとしての音楽」という話を書きましたけど、オリンピックの競技を見ていると、「芸術としてのスポーツ」というのを非常に感じます。鍛え上げられた肉体が見せる技、というのは、どれも美しい。特に、体操という競技は、難易度の高い技は勿論、肉体がピタリ、と静止する瞬間までが、とても美しい。

面白いなぁ、と思ったのは、平泳ぎの北島選手が、100メートルで金メダルを取ったあと、「200メートルでも、最高のパフォーマンスを見せたい」とコメントしていたことです。「パフォーマンス」という単語が出てきたことが、すごく印象深かった。

この「パフォーマンス」という言葉、「成果」とか、「実行」という意味もありますけど、舞台芸術の場で使われることが多い言葉だし、北島選手がこの単語を口にしている中にも、「成果」という言葉にとらわれない、「美しいもの、観客を感動させるものを見せる」という意識があったと思います。蓮見重彦先生の「スポーツ批評宣言」はまだ読んでないのですが、一流のスポーツ選手が見せる「パフォーマンス」というのは、例外なく「美しい」。その一瞬に至るまでの努力や、涙と感動の物語、などがクローズアップされがちですが、そういうことを一切抜きにして、谷亮子選手のキレ味鋭い投げ技は、「美しい」。

以前この日記にも書いた、中国の京劇なんかを見ていると、身体表現の美しさを追及する舞台芸術とスポーツの境目がどこになるのか、次第に渾然としてくる感覚に襲われます。グルベローヴァやナタリーデッセイのコロラトゥーラの超絶技巧も、完成度の高いスポーツを観戦している瞬間と同じ興奮がある。シンクロナイズドスイミングや、フィギュアスケートに至っては、「芸術性」がまさにスポーツの完成度の評価基準となっている。そこまでいくと、一体我々のやっているのはスポーツなのか、芸術なのか。技術の粋を追及していってたどり着くもの、というのは、実は非常に共通した要素を持っているのかもしれませんね。