死ということ、戦争ということ

娘がすくってきた金魚(ミニちゃん、という名前に改名しました)が昨日死にました。娘はぎゃんぎゃん泣いたそうで、私が帰宅した時にもどこか元気がない。しばらくもじもじした後で、夕食の席で、「ミニちゃん、死んじゃった」と報告。「でも、お庭に埋めたから、海で泳ぐんだよ」といってにっこりしていました。そういう理解でいるらしい。

死ということについて、子供にどう伝えるのか。難しいなぁ、と思います。最近の少年犯罪のニュースなんかを見ていると、「人を殺すな、自分も死ぬな」、という最低限のことを納得させることの重要さを感じる。でも同時に、どう伝えれば子供に納得してもらえるのか、考え込むばかり。

死ということについてどう向き合うのか、というのは、多分、人間の一生で最大のテーマなんでしょうね。自分自身、親しい友人の死や、肉親の死を経て、次第に実感してきたことですし。「人間いかに生きるべきか」、という命題が、実は、「人間いかに死ぬべきか」という命題とイコールなんだ、というのも、本当に最近になっておぼろげに理解してきたこと。

身近なものの死と、それに伴う喪失感を少しずつ体験し、実感していくしかないんだろうな。ちょっと元気のない娘を見ながら、そう思いました。
 
同じように、この子に、いつ、戦争の話をしようか、というのも大きなテーマだなぁ、と思っています。日本人として生まれた以上、オキナワ・ヒロシマナガサキの物語をきちんと伝える義務がある。自分の子供心に、一番強烈に残っているのは、やっぱり、松谷みよこさんの「ふたりのイーダ」なんですよね。こういう優れた童話や映画の方が、色んな歴史書よりもずっと真実を伝えている気がする。先日再放送していた「さとうきび畑の唄」と、今村昌平監督の「黒い雨」は、いつか、娘に見せなければいけないな、と思っています。