トスカのこと

昨夜、先日クラシカ・ジャパンで録画した「トスカ」をダビングしながらチラチラと見ていました。ライモンディがスカルピアをやった、97年のスカラ座の映像です。
スカルピアがトスカに刺し殺されるシークエンスは、じっくり腰を据えてみたのですが、ライモンディのスカルピアは、見るからに好色そうで(失礼)、悪役商会に登録できそうなワル顔。いいですねぇ。一点の同情もなく、トスカに感情移入でき、刺し殺されてしまうと爽快感さえある。よくやったぞトスカ。
 
トスカは、MET来日公演で、パバロッティがカヴァラドッシをやった舞台を見たことがあります。死刑を前にしたカヴァラドッシが「星も光りぬ」を歌う前に小机があって、なぜか水差しが置いてある。まぁ待遇のよい死刑囚ですこと。銃殺されるシーンは巨大なトドが階段に転がったのかと思った。いや、歌はそりゃあ最高でしたけどね。
この時のスカルピアがかっこよかった。名前を失念してしまったのですが、カヴァラドッシュよりよっぽどかっこいい。悪役でありながら、どこか高貴ささえ漂うニヒルさ。ナポレオンの戦勝によって目前に迫った自分の破滅を前に、トスカの肉体を、刹那の快楽をひたすらに求める姿は、悪でありながら、どこかにひたむきささえ感じました。滅びの美学、というか。
 
トスカについては、うちの女房が、極めて独自の解釈を持っていて、METの舞台を見た後に聞いたときには驚愕した。そんな解釈があるのか!しかし、上述のように、トドのカヴァラドッシュと、高貴なスカルピアを見た私には、非常に得心がいってしまったんですね。

その解釈のポイントというのは・・・「トスカはスカルピアを愛してしまったのだ!」

あ、そこの人、引かないで。あくまでうちの女房の解釈だからね。この日記でも何度か出てるけど、うちの女房は決して尋常な人物ではないから。「何言ってるの、あんた」と思ったあなた、否定しません。あくまで一つの解釈ですから。

といいつつ、この解釈には妙に説得力があるのである。以下の記述における著作権はうちの女房に所属します。無断転用を禁じます。
 

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トスカの物語の中で、最も印象深いシーンでありながら、最も謎めいたシーンが2つある。1つは、自らが刺し殺したスカルピアの側に、トスカが燭台を置き、スカルピアの胸に十字架を置くシーン。もう一つは、トスカがカヴァラドッシの死を知り、狂乱して城壁から飛び降りるシーンである。

前者については、トスカが、憎いスカルピアとはいえ、死者に対する敬意を表しているのだ、と解釈し、トスカのどこまでも純粋で無垢な性格を表すシーン、として演出されることが多いだろう。しかし、これが、トスカのスカルピアへの愛を示すシーンだったとしたら?

トスカは、純粋無垢な歌姫。同じ芸術家として、画家のカヴァラドッシを愛し、やきもちを焼き、ある意味平凡に、子供のゲームのようなその恋愛に満足している。しかしそこに、突然スカルピアが巨大な影として現れる。その存在は悪そのものなのだが、トスカの今までの人生に、このような人物が現れたことはない。そしてトスカは、その悪の匂いに怯え、慄きつつ、その魅力に強烈に惹かれるのである。
そのスカルピアが、恋人の命と引き換えにその肉体を求めた時、トスカの中に沸き起こる葛藤は、非常に複雑な様相を見せる。スカルピアの欲望は刹那的な分、激しい。噎せ返るような雄の匂いに、能天気なカヴァラドッシにない、強烈な磁力を感じ、トスカは思わず体の芯に炎がついたような不思議な感覚に震える。その葛藤は、恋人への貞操を守ろうとする純粋なトスカと、悪の魅力の中に身体を投じてしまいたい、という肉欲に悶える悪女トスカとの葛藤となるのである。そこには勿論、失われるかもしれない恋人の命と、自分の貞操の間の葛藤が入り混じる。その葛藤の末、トスカはついにスカルピアを手にかける。
「死ね、死ね!」と叫びながら、トスカは自分の頬を伝う涙に気付く。気付いてみれば、自分は動かぬスカルピアの胸を叩きながら、どこかでその胸に顔をうずめようとしていないか。自分の中のどす黒い矛盾に驚愕したトスカは、死体から飛び退るように離れる。しかし涙は止まらない。何故か。理解できないままトスカは、スカルピアのそばに燭台を置き、その死を悼む。その間中、トスカは意味もなくすすり泣き続けるはずである。

・・・ちょっと待て、それはあまりにもねじくれた解釈だ、とおっしゃるそこの人。では、もう一つの謎についての納得いく回答を提示することができるか?それは、前述したもう一つの謎のシーンである。オペラのまさにクライマックス、トスカが城壁から飛び降りる、最高に印象深いシーン。このシーンにおいて、トスカは、恋人カヴァラドッシの名前ではなく、スカルピアの名前を叫ぶのである。

「スカルピア、神の御前に!」

これはどういうことだ!死に際に、最愛の恋人の名前ではなく、自分から全てを奪った極悪人の名前を叫ぶというのは?これこそ、トスカの中に、スカルピアへの未練、欲情が強烈に残っていた証拠ではないのか。
トスカは全てを失った。最愛の恋人も、そして自分の中の女の欲望に火をつけた、抗し難い魅力を持った極悪人も、自分の手にかかって既にいない。絶望と狂乱の中で、トスカは自らの命を絶つことを選ぶ。周知のとおり、敬虔なキリスト教徒にとって、自殺は悪であり、自殺者は天国には行けない。しかし、トスカは自殺を、すなわち、地獄を選ぶ。恐らくは天国で待ってくれているカヴァラドッシよりも、煉獄の永遠の炎に焼かれながら、トスカの肉体を求めて泣き叫び続けているのであろうスカルピアを選ぶ。地獄に落ちてもスカルピアを責めてやる。地獄に落ちても、スカルピアのあの胸を叩き、あの胸にナイフを突き刺してやる。地獄の業火の中で、スカルピアと一体になる幻想の中で、トスカは欲望の炎に悶えながら叫ぶのだ。

「スカルピア、神の御前に!」・・・

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・・・ま、要するに、見た舞台で、カヴァラドッシを演じたテノール歌手より、スカルピアを演じたバリトン歌手の方がかっこよかったから産まれた解釈、という気が非常にしますけどね。私も、最初にライモンディのスカルピアを見てたら、こんなにこの解釈に納得しなかったかもしれないなぁ。ちなみに、スカラ座の映像で、カヴァラドッシュをやったのは、知的かつノーブルなシコフさん。どう見たってカヴァラドッシの方が、スカルピアよりもいい男。この舞台を見ていたら、この独特の解釈は生まれなかったでしょうね。舞台って残酷だなぁ。