映像と記憶

昔から記憶力がなくて困っている。年を取ったから、というのではなくて、子供の頃からの習い性である。振り返れば、小学校以前の記憶というのは曖昧模糊としている。具体的なイメージがはっきり浮かぶ記憶というのは数えるほどしかない。小学校時代の友人の名前、なんてのは雲散霧消している。中学以降の友人の名前はある程度記憶しているが、これは中高一貫の6年間を同じメンバーで過ごしたおかげであって、絶え間ない反復の賜物以外のものではない。大学入試のためにあれだけ詰め込んだ知識などは全て闇の底に消えている。小学校時代に習っていたそろばんの乗算でさえすっかり忘れているのには呆れるしかない。
記憶力がないのにも利点はあって、昔読んだミステリ小説などを繰り返し読んで飽きない、とか、色んな雑学に出会っていつまでも新鮮な驚きがある、などのメリットもある。赤瀬川先生の「老人力」の世界ですね。40前にして老人力かよ。40にして惑わず!40にして覚えず!何言ってるんだ。すみません。
ただ、唯一、かなりの記憶力を残しているのが、映画のこと。昔好きだった映画のシーンなどは、今でも鮮やかに覚えているし、TVでワンシーンでも流れると、「あ、あの映画だ」とピンとくる。でも、映像による記憶っていうのは多分そういうもので、他の記憶よりも刷り込み力が強いような気がする。
 
なんでこんなことを書いているか、というと、昨夜、去年の秋に行ったディズニーランドのビデオを見直していたせい。映像に撮った場景を、その映像ごしの記憶として思い出す感覚が、なんだかちょっと気持ち悪かった。説明が難しいな。要するに、映像以外の記憶が相対的にひどく不鮮明なもののような感じがするのだ。
エレクトリカルパレードの映像を見ながら、その時の気温や、映像に残っていない周囲の場景や、人々の表情なんかを思い出そうとすると、それらの記憶は例によってあいまいである。ところが、カメラで切り取られた画面は非常に鮮明で、まるで自分がその場面を記憶しているような錯覚に陥る。でも、実際は、画面に再生された情報を追体験しているだけで、その場面を記憶しているわけではないのだ。もっと端的に言えば、自分が記憶していない、記憶できない場景を、代わって記憶・記録してくれる手段としての画像記録を見ているだけ。自分は記憶していないのだけど、その画像を再生することで、記憶しているような錯覚に陥ることができる。というか、そういう錯覚に陥っているような気分が、最初に言った「気持ち悪さ」なのかもしれない。
 
画像記録のもう一つの気持ち悪さは、現場において、カメラを通した場景だけが自分の受容する情報になってしまう、ということ。娘の運動会の時、園長先生が、「カメラで記録するのもいいですが、是非、生のお子さんの姿を見てあげてください」とおっしゃっていて、なるほどな、と思った。確かに、一生懸命カメラごしの画像を見つめていると、記憶はその画像の枠の中の映像に限定されてしまう。記憶の代行手段が記憶を制限する本末転倒。
 
なんだか難しい話をしてしまいましたが、TVの中のまだ小さい娘の姿を見ながら、この子は大きくなったら、自分の小さい頃の姿をTVで見て、どう思うのかなぁ、とちょっと考えてしまいました。画像記録というのは歴史の浅い記録手段ですから、それが人間の記憶のメカニズムに与える影響、というのも、そんなに深く研究されていないかもしれません。でも、何らかの影響を与えるのじゃないだろうか、そんな気がします。