オーラってなんだろうなぁ

暑いなんてもんじゃないって感じですね。お湯の中を歩いているような感じ。会社の中の空調で汗が冷やされて、必要以上に寒くなる。これじゃ体調を保つ方が難しい。週末には長旅もあるし、ノドに悪影響が出ないように、ひたすら自重、です。
 

さて、今日は、「オーラ」ということについて考えてみたいと思います。
 
先日読んだ雑誌に、指揮者の小林研一郎先生の特集記事が出ていました。その中で、小林先生は、

「オーラこそ全て。オーラさえあれば、団員も聴衆も一緒に持っていくことができる」

とおっしゃっていました。それを見て、改めて思いました。「オーラって、何だろう?」

まとっている空気、というか、雰囲気、というか。広い意味で言えば、みんなそれなりのオーラを出していると思います。例えば、最近よく見かける街中で座り込んでいる若者たちからは、「俺たちに構うなよ」というオーラがびんびん出ている。そっち系の怖いお兄さん達が、肩で風を切って街を闊歩している姿だって、「なめんなよコラ!」というオーラがバリバリ出ている。でも、ここではそういうオーラではなくて、指揮者・演出家・役者・歌手、といった、パフォーマンス系の人々が、舞台の周辺で発するオーラについて、考えてみたいと思います。

どうも色々考えると、パフォーマンスアートにおいて、「オーラ」という言葉が口にされる場合、「伝達」と「感動」ということ、が、まず、キーになる気がします。つまり、自分のイメージを的確かつ強烈に「伝達」する能力の高低を、「オーラが強い・弱い」と言っている気がする。また、そこで得られた感動、衝撃の強さ、弱さ、が、「強烈なオーラ」「弱いオーラ」と言う言葉につながっている気がする。

もう一つ、「オーラ」と言う言葉には、「言葉以外の手段」というイメージがあります。どこか神秘的なイメージで、通常の伝達手段である、「言葉」というツールではない伝達手段を指している。言葉以外の強烈な手段によって「伝達」されたメッセージ・イメージによって、巨大な「感動」が共有されたとき、そのメッセージ・イメージを発する源泉に対して、「強烈なオーラが発せられている」という。そういう使い方をされている気がする。
 

歌手・役者さん、というのは、基本的に「言葉」を使って、聴衆に対して何かを伝達する人々のこと。でも、伝達手段は、「言葉」だけではない。「言葉」以外の伝達能力が高い人を指して、「オーラの強い役者さん」と言っている気がします。
例えば、名優は、レストランのメニューを読んだだけで、聴衆を感動させることができる、と言いますが、これは、「言葉」の伝える内容ではなく、いかに洗練された、美しい表現によって、その言葉を伝えるか、という能力が、非常に高い、ということだと思います。
そう、また出てきました。「何を伝えるか」ではなく、「どう伝えるか」というテーマです。
非常に単純な話、とても姿形の美しい人が、とても美しい声で、レストランのメニューを読むと、なんとはなしに聴き入ってしまうと思います。その「美しさ」が、伝えられている内容以外のところで、聴衆に感動を与えている。逆に言えば、美しくなく、異様に醜い人が、異様に醜い声で、同じようにレストランのメニューを読んでも、聴衆に何らかの衝撃を与えることができる。そういう、言葉の内容以外のところ、言葉以外のところで与えられる衝撃・印象の強さが、その役者さんの持つ「オーラ」の強さ、と言えるんじゃないかな。

そしてこの「オーラ」というのは、鍛錬することでより強化される。例えば、生来美しい身体に恵まれた人でも、鍛錬されていない喋り方でレストランのメニューを読んだら、聴衆に与える印象はまるで減衰してしまうでしょう。
「言葉」のもつ、「言葉」以外の伝達パワーが最も問われるのが、歌唱、といえるかもしれません。分かりやすい例で言えば、イタリアオペラなんか、同じ「愛してる」という言葉を、10回も20回も繰り返しながら、全然違うメロディーや、強弱や、歌いまわしで聞かせることがあります。これこそ、「何を伝えるか」ではなく、「どう伝えるか」という部分で、「愛している」という言葉の持つメッセージを極大にまで高める手法。これによって、「言葉」以外の感動が伝達されていく時に、歌手から噴出してくるものこそ、「オーラ」といえるのかもしれません。
 

次に、演出家の「オーラ」ということを考えてみると、この人たちは若干特殊であることに気付きます。まず、「伝達」「感動」というキーワードで言うなら、演出家の持つ「オーラ」が発揮されるのは、あくまで俳優・役者に対してのみです。演出家は舞台に立ちませんから。聴衆が、演出家のオーラを直接感じることはできません。
次に、演出家が俳優・役者に「伝達」する手段は、あくまで「言葉」です。言葉以外の手段をあえて使わないといけない必然性はない。往々にして、演出家は極めて饒舌に、大量の言葉を並べながら、自分の意図やイメージを伝えようとします。では、演出家には「オーラ」は必要ないのか?
全然逆で、演出家には、俳優・歌手という強烈なオーラを持つ人々を自分のイメージどおりに動かすために、あらゆる手段を使って彼らを納得させなければならない。彼らを納得させるには、当然言葉も大事な手段ですが、言葉以外の手段、つまり、強烈な「オーラ」を、彼らに対してぶつける必要がある。
演出家として必要な能力は、ざっと思いつきで並べてみると、

・台本や楽曲を十分に理解し、生かしつつ、そこに整合するイメージ・メッセージを破綻なく盛り込むことができる力=芸術家
・素材と、自分のイメージの整合性を、俳優・歌手に理解させる「論理」=学者
・その「論理」を、俳優・歌手に的確に伝達し、納得させ、一つの行動に移させる=政治家
・自分のイメージを聴衆に最も効果的に伝えるために、俳優・歌手がどう動くべきか、を的確に指導する力=指導者
・それらの動きや舞台構造を、破綻なくまとめていく=職人
・完成した舞台を客観的に眺め、問題点を的確に指摘できる=観客

という多層的な能力だと思うのですが、その中でも、「政治家」「指導者」としての能力が高い人が、「オーラの高い人」と言われるのかもしれません。変な話、論理=言葉が破綻していても、役者が納得してしまえば演出家の勝ち。逆に、いかに論理的=言葉が正確であっても、俳優に納得させるだけのコミュニケーション能力=「オーラ」の強さがなければ、演出家としては難しい。でも、逆に、そんなに強烈なオーラを発出させずに、言葉の正確さ、批評・指示の的確さで、うまく俳優・歌手を制御していく演出家の先生もいらっしゃるのでは、と想像しますが、そういう演出家は、合唱団や、群集といった大集団をうまく動かすのは難しいかもしれません。簡単な例で言えば、「ここで右から左に動きます」という指示を、小声でぼそぼそ言ったって、合唱団は動きません。張りのある、誰もが聴き入るはっきりした発声で、「ここで右から左に動いてください!」と指示する。それも、身体を使って、「こっちから、こっちへ!」と舞台上を走り回って見せ、全員の注意をひいたりする。これも、言葉の内容を超えた、「オーラ」による伝達といえるんじゃないでしょうか。

 
続いて、指揮者のオーラですが、かなりの部分は、演出家と重複していると思います。演出家の所で指摘した、「芸術家・学者・政治家・指導者・職人・観客」という全ての要素が、指揮者には要求されますから。しかし、演出家と決定的に異なる点がある。演出家は舞台に立てないが、指揮者は舞台に立てる、ということです。そして、もう一つ、最大の相違点があります。言葉を使えない、ということです。声を出して指示することができない。指揮棒という手段しか与えられていない。
まず、この「指揮棒」というのが、聴衆からすると非常に神秘的なものに見える。まさしく、「言葉を越えた伝達方法」ですから。人間の伝達能力を支える、言葉と言う最大の手段を失いながら、魔法の杖のように見える不思議な棒一本で、自分のイメージを的確に伝え、人々を感動させる。そこに、指揮者を「オーラ」の源泉と見る環境がまず整います。
そして、そういう職業、つまり、言葉も音も、一切の発音を封じられているからこそ、小林研一郎さんがおっしゃるように、「オーラ」=言葉以外の伝達能力の強さが問われる。指揮法=バトンテクニック、という技術の優劣、というのは勿論あるでしょうが、音楽、という巨大な構築物を、オーケストラという多人数で表現していく時に、バトンテクニックだけの伝達手段では到底足りない。視線・呼吸・顔の表情、体の動かし方、あらゆる表現能力、伝達能力を駆使し、自分のイメージを、指示を的確に伝える。それも、一言も発することなしに。

おそらく舞台に立つ表現者の中で、最も、「オーラ」を必要とする人、それが指揮者なんでしょうね。