コミュニケーションとストレス

突然ですが、最近のニュースなどを見ていると、コミュニケーションって難しいなぁ、と思うことが多いです。言葉というのは便利なようですけど、一つの言葉から受け取るイメージ、というのは人によって全然違ってくる。音楽なんかと実は同じなのかもしれない。一つの音楽を聴いた時に感じる印象や、浮かび上がってくるイメージ、というのは人それぞれですよね。それと同じように、一つの言葉から喚起されるイメージ、というのも、受け取る人によって全然違ってくるんじゃないだろうか。

それなのに、「分かっているつもり」になって、誤解が広がってしまったり。あるいは、自分の使う言葉がどれほど人を傷つけるかが分からなかったり。そもそも双方で相手の言うことを聞こうとしないで、どんどん憎悪が溜まっていったり。そういうコミュニケーションギャップが、すさんだニュースの裏側に、必ずと言っていいほど見え隠れするような気がするんです。

一つの言葉から喚起されるイメージに対して、送り手と受け手の間で差がありすぎる時に、コミュニケーションギャップが起こります。これを解決するために、またコミュニケーションを重ねるわけですけど、いくら大量の情報をやりとりしても、どうにも埋まらないギャップっていうのはあるんじゃないかな、と最近思います。「永遠に理解し合えない人」というか・・・

自分の身近でそれを感じた例を2つばかり。

1つめ:会社の同僚に、私がオペラやオペレッタをやっている、という話をしたら、彼が、「そりゃすごいですねぇ。でも、パーケンは買わないですよ!」と言ってけらけら笑っている。パーケンってなんだ?一瞬理解できなかったんですが、「パーティー券」のことだと分かって、絶句・・・彼にはオペラの話は二度としてません。

2つめ:女房の友人の話。モデルさんみたいにきれいで、スタイル抜群、ファッションセンスも素敵な女性がいて、その人に、「いつもきれいねぇ」と声をかけたら、「あら、xxさんだって、旦那さんお医者さんなんでしょ?」との返事。なんで、「きれい」であることと、「旦那がお医者さん」ということが同列で語られるんだろう?

こういったギャップにぶつかるたびに、ストレスが溜まります。でも、現代社会では、こういうギャップを感じる人たちとのコミュニケーションが不可欠。昔であれば、閉鎖された「ムラ」社会で、みんなが「コンテクスト」を共有していたから、そういうギャップもあまり感じなかっただろうし、ストレスもなかったんでしょうけどね。

現代社会がそういうストレスを不可避としているのであれば、一方で、そのストレスを発散するシステムが、社会的に用意される必要があるんじゃないかな、そんなことを、最近、女房と話していました。